物語る

       「自我の破れ目から

                      大峯あきら

 詩的言語と日常生活の言語との違いを正確に述べたのは、
スイスの思想家マックス・ピカートの次の文章である。
「日常生活の言葉では、人間は人間や物について自分が語る言葉を聞いている。
しかし、詩の言葉では、人間は物が物自身について語る言葉を聞くのである」
 詩とは何かをこれほど見事に述べた文章は滅多にないように思われる。
芭蕉のつぎのような句を例にとって見よう。
  さまざまの事おもひ出す桜かな
  六月や峰に雲置く嵐山
  ほろほろと山吹ちるか滝の音
 ピカートによれば、これらの言葉は、桜や嵐山や山吹について芭蕉が言っている言葉ではない。芭蕉の言葉の中で、桜や嵐山の夏雲や山吹の花が自分自身のことを語っている言葉なのである。
そんな気もするというのではない。じっさいに語っているのである。
だから、これらの句に感動する人は、言葉が、物に対して人間が外から張り付けた記号やレッテルなのではなく、物そのものを生み出していることに驚いているのである。
詩とは存在のコピーではなく、存在そのものを創造し建設するいとなみである。
 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」
と言うのは、芭蕉の個人的な東洋趣味とというようなものではない。洋の古今を貫く詩的言語の本質への途を告げているのである。
 人間の言葉よりも先に人間に呼びかける宇宙の言葉がある。その言葉を聞いたら、人間の自我は破れ、その破れ目から本来の言葉が出てくる。それを詩という名で呼ぶのである。
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昨日、伊藤千尋さんの講演があった。
 
憲法9条、今が正念場―私たちの手で真の積極的平和を」
 
9条の声、憲法の声を聞いた。
いや聞こえてきた。
世界の片隅から。日本列島の片隅から。
それに対して、マスコミから聞こえてくる声は、人間らしいと言えばそれまでだが
自我のかたまりの声ばかりである。
 
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