維摩経義疏

100分de名著で、釋徹宗師が「維摩経」を取り上げている。


これは面白いと思う。
以前、仏国土についての議論をしたことがあるが、それは維摩経から学んだ。
さらに、弥勒菩薩維摩への見舞いを断る時に、
維摩が、弥勒の一生補処について問い、さらに、
マイトレーヤよ、あなたが悟りに到達するならば、
 その時にはあらゆる衆生も同じく悟りに到達するでしょう。
 なんとなれば、あらゆる衆生によって理解されること、
 それこそが菩提(さとり)だからです。
 マイトレーヤよ、あなたが完全な涅槃にはいるとき、
 その時にはあらゆる衆生も完全な涅槃にはいるでしょう。
 なんとなれば、あらゆる衆生が完全な涅槃にないらない限り、
 如来も完全な涅槃にははいらないのです。
 それはそれら一切衆生が、実に完全な涅槃にはいること、
 涅槃の本質を有することを見抜いているからです。
と語る。
これは法蔵菩薩の48願そのものの心である。
維摩経と他力念仏の教えはつながっていることを示しているからだ。

TVを見ていて、気がついたことがある。
弟子品で、舎利弗などに見舞いに行くように言うが、彼らはそれを断る。
今までその理由はあまりピンと来なかったが、TVの説明でよくわかった。
ところが原典を再度読んでみると、TVの説明の通りではない。
そこで、聖徳太子の「維摩経義疏」と比べてみた

原典(世界の名著・大乗仏教
あなたがやっているような仕方の座禅で、
 座禅の修業をすべきものではありません。
 ・・・
 輪廻に属する煩悩を断たないままで、しかも涅槃に入ることにもなる、
 というように座禅しなさい。

義疏(日本の名著・聖徳太子
必ずしも坐していることが安坐なのではない。
 ・・・
 煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これが安坐である。

義疏の方はまさに、正信偈であるし、よくわかる。
その他の弟子たちの話も義疏の方がよくわかる。

今まで、弟子品をしっかりと読んでいなかったということがわかった。