「阿弥陀の金の鎖」の一つ

北米教区では礼拝の前に「阿弥陀の金の鎖」という文章を称えているという。

  私は世界を結ぶ阿弥陀の金の鎖の一つであり、
 それを明るく強くあり続けるようにします。
  私は行きとし生けるものすべてに対して思いやり深く、
 自分よりも弱いもの全てを護ります。
  私は清く美しい心をもち、清く美しい言葉を口にして、
 清く美しい行いをいたします。
  阿弥陀の金の鎖の一つ一つが明るく強く、
 すべての人たちが完全な平安を得られますように。

念仏の声は、このように響くものだと思う。
17願は往相廻向の願である。
私たちの日々の念仏は、諸仏の称讃として響く。
私は、それを衆生として聞く。

「この一節が教えてくれるものは、
私たちは自分だけのために実践するのではなく、
私たち自身が愛の鎖の一部であるということである。
私たちが日常においてなす善は、
全て私たちを超えた何かに役立っているのであり、世界に広がっている。
私たちの一人一人が、行きとし生けるものの共同体の一部なのである。
私たちが日常においてなすことが愛と平安と思いやりをはぐくむものとなるであろうし、時には憎しみや恨みを生じさせることになるかもしれない。
世の中に恨みの風が吹くときは、心を平安にたもち、また不純な思いを持たないように努めなければならない。」

これは、「阿弥陀の金の鎖」の解説としてつけられたもの。

徳永一道師の問題提起。
往生の問題に関しては、日常の倫理規範は無効である。
往生の問題に関しては、自分の力は無効である。
だからこそ、阿弥陀の金の鎖の一つとなることこそが、還相の廻向なのだと思う。