因としての往相廻向と果としての還相廻向

ふと疑問が浮かんできた。
「往相廻向のあるゆえに、還相廻向の利益有り」
往相廻向が因で、還相廻向は果になっている。
しかも利益があるとなっている。
早速和讃を調べてみる。
 
「 還相廻向ととくことは
   利他教化の果をえしめ
   すなわち諸有に廻入して
   普賢の徳を修するなり
 
  南無阿弥陀仏の廻向の
   恩徳広大不思議にて
   往相廻向の利益には
   還相廻向に廻入せり
 
  往相廻向の大慈より       (抜苦)
   還相廻向の大悲をう      (与楽)
   如来の廻向なかりせば
   浄土の菩提はいかがせん 」
 
親鸞さんは、「如来の廻向」だけでよいのに、それをなぜ往相と還相と二つに分けたのだろうか。
もちろん、浄土へ往生する相と、利他教化をする相がともに如来のはたらきであることはわかる。
疑問が浮かんできたのは、それがなぜ因と果になっているのかということだ。
 
朝方、ふと降りてきたことがある。
念仏を称えることで、往相廻向によって往生できる。
そして、それは、私の往生だけでなく、その念仏を聞いている他の人への利他教化となり称名へと導く。
すなわち還相廻向としてはたらいている。
往相廻向の念仏のはたらきは、必然的に還相廻向の利他教化になっている。
それは、聞いた人にとっては、苦しみからの脱出であり、私にとっては喜びである。
そして、それはまた同じはたらきをして、念仏が相続される。