ある学校の校長の通信から。 テーマは「ありがたい」
①「ありがたい」というのは「有り難い」と書く。つまり「ある」ことが「難しい」ということ
(お、めずらしく良いこと書いているのかな?)
その反対語は何か、答えは「当たり前」です。(うん、うん、)
②その「当たり前」の説明に「当たり前」と思っていることが実は有り難いことであり、
それにみんなは気づいていない。
(なかなかやるじゃん。次に続く文章をちょっと期待。)
③自分たちはとても恵まれていることに気づいていない。
物はありあまり、幸せに生活できて、豊かな世界がある。
みなさんは、それが当たり前と思っているがとても幸せに生活できている。
そのことに気づいていない。広く世界に目を向ければ明らかだ。
(おいおい、ちょっと変になったぞ)
④つまり、有り難い世界に生きているのであって、
ちょっとしたぐらいで不満を言ったり、わがままを言ったりすることは許されない。
不平不満があっても、それを我慢して有り難いのだから感謝して生きることが
必要だ。
(エーッ、驚いて気分が悪くなる)
(つぶやき)は紹介者のものだが、私も同感だ。
この論法は学校だけでなく広く世間に行き渡っている。
①と②までは、私もよく使う。
でも、③の結論にはいかない。
「当たり前と思っていることを疑ってみよう」
とか
「ありがとう」という言葉の縁起性を示すために使う。
でも、そういったときに、
実は聞いている人は、③のように考えているのかもしれない。
そして、私自身が実際にそのように押し付けているのかもしれない。
問題は、どうして③のように考えてしまうのかということである。
それはこのテーマが持っているそもそもの問題なのか、
私たちの思考がそうなってしまうのか。
学校にいた時、世界の子どもたちの困難な状況を紹介すると
必ず出てくるのが、それと比較して私たちは幸せだという考え方。
その時は、そういうことも考えられるなと思ったが、
その発想は、「なぜそうなるのか」とか「どうしたらいいのか」とは発展しない。
現状肯定しなってしまうのだ。
だから、そこを乗り越える次の手が必要となる。
自己中心的に世界と自分を位置づけようとしていることを乗り越えるコトが。
今の私にとってやらなければならないことは、
有難しの後の論法を深く考えてみること。
そして、論理のすり替えをやっているのではないかといつも考えること。
さらに、このすりかえの論理になってしまう私たちの状況を踏まえて
ここから一歩踏み出すためにはどうしたらいいのかを。