「近代」を超えて

いろいろな議論をした。

その中で、心に残ったことをいくつか。

以前書いた小谷信千代さんの「真宗の往生論」について
これを「文献学的には正しいけれど近代教学からいうと問題がある」
というとらえ方があると聞いた。

とすると、近代教学は文献学的には間違っているということだが
これを語った人は、近代教学の方を大前提にしているようなのだ。

もちろん、文献学の方を絶対視することも問題を含んでいるが、
それを近代教学を見直す絶好の契機ととらえることは
教学自体の発展を促すことだと思う。

私は近代教学は様々な問題を含んでいて、これからの浄土真宗を考えていく上では、乗り越えていかなければならないと考えている。
 
だから、このとらえ方はせっかくの宝の機会(ご縁)を無視するに等しい。
が、どうしてそう思うのかというと、近代教学を絶対のものと思い込んでいるところから来ていると思う。

それは、科学が絶対的に正しいものと思ったり、経済活動が必ず発展や進歩を必要とするという思い込みと同じものだ。

私自身が近代教学に疑問を持つようになったのは、
(1)明治期の僧侶たちの行動を調べたこと
(2)私たちの苦しみ(現代の問題)が「近代という時代」の持っている矛盾が現れたものと考えるようになったこと(ピケティの経済学)
(3)私自身の仏教に対する問題意識の深まり
(4)レビストロースの野生の思考
等による。

それは近代教学を乗り越えるだけではない。
近代の政治システム、近代科学、近代学校・・・
を乗り越えることを意味する。
 
ただ、「乗り越える」という言葉が正しいのかどうかも含まれる。

 
暮れに、最近のことを振りかえって久しぶりに書いた「意味宇宙の地図」

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