「日本的霊性」について

整理が落ち着いたので、例の近代化についての調査を始めている。
鈴木大拙の「日本的霊性」について調べていて、鎌田東二氏の論文と出会った。
 
 
これが面白い。
別のところで、氏は「面白い」の意味を説明していた。
 
天からの光がさして(あはれ)、その光によって顔が照らされると面が白くなる。
この白いというのは明るくはっきりする様を表し、赤(明らか)に対して、ほのかな光を意味する。
だから、顔が輝くさまを表していると。
(春は曙、ようようしろくなりゆく・・・。しるしの語源など。)
 
鈴木は、国家神道の元となった平田篤胤には霊性的な自覚が幼稚であったと批判しているが、
平田にもちゃんとあり、閉鎖性や偏りはあったとしても、霊性の深さでは変わりはなかったと書いてある。
そして、
鎌田自身の霊性のイメージを述べながら、多様性を認め、その上での共同性を志向するのが
新たな、これからの神仏共同(新神仏習合の時代ではないかと主張している。
 
また、平成は兵制の時代であり、中世的な状況を拡大再生産しながら、
十字軍のような戦乱・戦火を世界中に広げようとしている。
として、一万年かけてきた列島の歴史の中世に現代をなぞらえている。
そして、その中世とは、根源的で、個的な一者を求めてきた時代だと。
 
日本的霊性とは、多様なものを習合していくハイブリッド文化であり、現代にそれが求められている
という視点は私も持っている。
現に、鎌田氏の説に引かれるのも、仏教も神道も同じだなと感じるのも「霊性」のなせるはたらきなのだろう。
 
いろいろ面白いことが書いてあるのだが、
国家神道に対して、宗教としての神道を主張して、神道の側から批判した人がいたことも初めて知った。
 
そして、最も心に残ったことば
神からの道、神への道、神との道
これは私には二河白道としての「仏からの道」「仏への道」「仏との道」である。
私の近代化の旅は神道にまで来てしまった。