華厳経には「一即一切。一切即一。」という思想がある。
ただ一つの中に一切があるということである。
そして、仏教の言葉には必ず逆を伴う。
「一切即一」
つまり、逆に一切はただ一つの中にあるということ。
一即一切。一切即一。
これを全体と部分と考えると、
全体は部分の中に現れており、部分は全体の中に現れているということだ。
具体的には、以前シダの葉を譬えにして書いたことがあるが、
私たちの微塵世界にはその細部にも全体が満ち満ちている。
ところが、私たちの思考は、
「部分を集めたものが全体になる」
という考え方をする。
つまり、私たちは部分であり、一部であり、部品であるということになる。
逆に、全体は部分の中にいきわたらなければならないとされる。
これを個人と全体と考えてみるとよくわかる。
全体は個人の中に大きな影響を与え、個人は全体には部品でしかない。
部品は全体のために動かなければならないとされる。
でも、仏法は個人が全体だと示す。
つまり、私たちは部品ではないということだ。
単なる部品ではないのに部品として扱われることは法に背く。
周りを見ると、部品として扱われるような事例がたくさんある。
さとりへのスタートがさとりの全てであったように、
私たち一人一人が世界の全てである。
決して、一部のこと、一地方のこと、一個人のこと、部分のことと思ってはならない。
それは即ち私たちなのだ。