ケアの倫理と縁起

昨日は、岐生研の理論学習会で「ケアの倫理」について、詳しく説明してもらった。
 
その中で、川崎の事件で、3C(ケア、コンサーン、コネクト)を使って、
万引きをするということで仲間を維持していることがあるという話が出た。
3Cとは、コンサーン(ほかっておかないで関心をもち)、ケア(やさしく)し、コネクト(つながる)
という人間にとって最も必要なことを使って、仲間づくりをしているのではないかという話だ。
その仲間づくりは、万引きの仲間であり、いじめの仲間であった。
 
それは、ほかっておかれ、やさしくされず、孤独であったという逆の状態があるということを示している。
今この列島には、そういう状態の子どもたちが多くいるのではないか。
 
「ケアの倫理」とは、
「『私がここにいる』ことの重みを感じ、
 労苦を引き受けてくれる他者の存在によって、
 自分の存在が確かなものとなる」
すなわち、
「『注視、気遣い、労苦、葛藤、愛情』などの他者によるケアによって「わたし」が生まれる」
という思想をいう。
 
「私はここにいる!」
「私たちは生きている!」
 
私たちは、そういう声に耳を傾け、応答しているだろうか。
 
その声は無条件の存在の叫びである。
そして、その存在は、本来互いに依存しあっている存在である。
 
考えてみれば、釈尊は2500年前、縁起の法則をとき、
人間として生きることとは、助け合って生きていくことであると言われた。
それは無条件の存在肯定であり、
受けとめること、
共に生きていることによって、
初めて自分が自分として生きていくことができる
ということを示されていた。
 
悲しむべし、悼むべし、