「共在的他者」

自己肯定感
「ダメなところ、弱いところを含めて、自分の存在まるごとを肯定する」
それができるのはなぜか?
 
「共在的他者」がいることである。
 
ありのままの自分・矛盾している自分を見つめることは、とても苦しいことである。
『「私がここにいる」ことを受け入れてくれ、
「あなたがそこにいるね」と認めてくれ、
労苦を共に引き受けてくれる「共在的他者」の応答の中で、
自分の存在を確かなものとすることができる。』
 
私たちは、この「共在的他者」になれるのであろうか。
どうしたら、共在的他者になれるのであろうか。
自分自身の存在そのものが不確かである私たちが、
どうしたら共在的他者になることができるのだろうか。
 
 
親鸞さんは、
煩悩と罪にけがされ、清浄な心もなく、偽りと諂いに真実の心を失っている「私」の自覚。
だからこそ、
仏はこの「私」を悲憫し」信じる心を与え続けてくださっている
と感得されたのだろう。
 親鸞さんにとって、仏のみが「共在的他者」であった。