「そのままのおたすけ」と抑圧

「そのままのおたすけ」と言われる。
「このままですか」と答えて、「そのままじゃ」と言われたという。
 
煩悩を持ち、罪を重ねる私の自覚と、だからこそ救わずにはいられない仏の慈悲。
その時の私の自覚はどうなっているのか。
その自覚をどう表現したらいいのだろうか。
 
私には自己中心的に考える性分が身についている。
それは、「世界と一体になった私」であったり、「私のなかにある世界」であったりする。
何かを発見したときに、おれってすごいという気持ちと、そこに導いてくれた縁を感じる気持ちの二つある。
同様に、わがままな自己中心性と、ダメな自分をも肯定する自尊感情の二種類がある。
 
「~ができる人だから」「こんな良いところがある」と認められることで満足する心は、
「オレはすごいんだ」と思い、「他を見下す」心とつながりやすい。
でも、「そのままのおたすけ」は、そういう心ではない。
絶対的な自己肯定感である。
 
どうやら「そのままのおたすけ」は直接表現できず、「~ではない」としてしか表現できないのではないか。
それがうまく表現できない理由の一つではないか。
そんなことを考えながら、ひとつの表現を試みてみる。
 
心理学では感情を抑圧しないことは大事なことである。
抑圧されていた感情を表現することが、うつの症状の改善につながるという。
そのままというのは、自分の感情をそのまま感じてもかまわないということである。
決して抑圧しない。自分に正直であるということ。
そうしたときに、あるがままの自分として、あるがままの存在として、外の世界に踏み出すことができる。
自分を自由に表現できる。
あるがままのあなたで良いと仏は言っているから。
 
「罪悪深重・煩悩熾盛 の衆生をたすけんがための願にまします」
「本願ぼこり」はそこから自然に出てくる人間の性なのだろう。
たぶん、仏はそれをも認めるに違いない。