相模原の事件について

私にとって「相模原の事件」は最大の衝撃だった。
特別支援教育」に取り組んできたものとして、宗教者として。

最初に、なぜこんなことをしたのかと思った。
衆院議長に当てた手紙を読み、
これはホロコーストと同じであり、それを宣言して実行してしまうことができたことの怖さを感じた。
そのことについては
にほぼ要約されていて、私も同じようなことを考えた。

山本氏が言っているように、このことは真正面から受け取り、考えていかなければならない問題だと思う。
ただ、決して許されない犯罪を犯した彼もまた真正面から受け止めこういう犯罪に到ったことを思うと、
その道筋は危険でもある。
でも、その危険な道をあえて進む勇気が必要なのだ。

植松容疑者は「障がい者が保護者の同意を得て安楽死できる世界」が目標であると述べている。
そこには、一定の保護者や介護職員の疲れや絶望に対する共感がある。
そして、障がい者を家族に持つことは不幸であり、世界経済にとってもマイナスであると思っている。
さらに、「全人類が心の隅に隠した想いを声に出して」(本音で)行動したと宣言している。

危険な道であるというのは、このことを心の隅で思わない人は多分いないだろうと思うからである。
多分私たちは心の隅でそう思いながら、決してそうではないことを様々なことから学んでいるのではないか。

このことについて、
ヘイトスピーチなどの差別発言が公然となされる現状が本音と建前と分けてしまうことは、
大事な学びから私たちを遠ざけることになっていることも指摘しておかねばならない。
また、「世界経済にとって・・・」という言葉からは市場経済ルール優先の考え方も見える。
そして、「日本のため」とか「日本国が大きな第一歩を踏み出す」という言葉からは、
回り(の人やモノ)を操作したり変えることが値打があることだという価値観が見える。
でも、それは逆に自分が操作されているかろこそ、そこから逃れようとするあがきも見える。

そして、最も感じることは障がい者を他者だとは思っていないこと。
他者の存在と尊厳は自分自身の存在と尊厳への裏返しだから、
彼には自分自身の存在と自分自身への尊厳が見られない。
このことが最も悲しむべきことだと思う。

私たちはちっぽけな存在である。
弱く無力で愚かな存在である。
そして、欲望を肥大させ何をするのかわからない存在でもある。
私たちのそういうみじめさの自覚が、
みんな同じみじめさを生きているという人間に対する愛おしさを生むのではないか。
そして、そういう弱さそのものから私たちのはかない幸福が生まれてくる。

救われない今回の事件を通して、私の心に響いた言葉がある。
手をつなぐ親の会が障がい者に呼びかけた文だ。

 あなた方は、身の回りのこともできず言葉も通じない。
 だけど、心と心のコミュニケーションは伝わる。
 表情の雰囲気や小さな反応でわかる大切な家族の一員。

容疑者は「障害者はいなくなればいい」と 話していたそうです。
みなさんの中には、そのことで 不安に感じる人も たくさんいると思います。
そんなときは、身近な人に 不安な気持ちを 話しましょう。
みなさんの家族や友達、仕事の仲間、支援者は、きっと 話を聞いてくれます。
そして、いつもと同じように 毎日を過ごしましょう。
不安だからといって、生活のしかたを 変える必要は ありません。
 
障害のある人もない人も、私たちは 一人ひとりが 大切な存在です。
障害があるからといって 誰かに傷つけられたりすることは、あってはなりません。
もし誰かが「障害者はいなくなればいい」なんて言っても、
私たち家族は 全力でみなさんのことを 守ります。
ですから、安心して、堂々と 生きてください。