煩悩の厄介さ

私たちの持つ煩悩はとても厄介なものだ。
煩悩は本能とは違い、濁世と業の中から縁起として出てきたもの。
差別、欲望、瞋恚・・・など人の愚かな行為を言う。
これをどうするのかということで聖道門と浄土門は分かれる。
 
差別はいけないからやめようというのは、聖道門である。
煩悩を捨てて仏(良い人)になるというのが、聖道門である。
では、浄土門はどう考えるのかと言うと、そうではない道としか表現できない。
 
ただ、道だから指し示すことはできる。
煩悩から離れることのできない私であることを悲しむ。
愚かな私を悲しむ。
差別をしてしまう私を悲しむ。
差別をしている相手に対しては、差別は縁起として起こったものだから、
相手を憎むのではなく差別という行為を憎む。
でも、憎むことも煩悩。
このことについては、ガンジーキング牧師の示した道がある。
 
差別をしている人は、浄土の光に照らされて、愚かな行為であったと気づく。
この道については、「アジャセの答(無根の信)」として親鸞さんがとりあげている。
また、多くの妙好人が自身の行為で指し示している。
その道は、煩悩を捨てることではない。
煩悩と一緒に生きる道。
でも、煩悩を肯定しているわけではない。
煩悩を常に照らしていく道。
ここが難しくて、間違えると、煩悩を肯定して、
人間だからしかたがない、煩悩があるから救いがあるなどという考えに陥ってしまう。
戦争を起こす人間の愚かさも肯定してしまうことにもなってしまう。
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明宝歴史民俗資料館にある、竹で作った代用の輪灯。
金物を供出するということで、仏壇の輪灯すらも金属兵器にしてしまった人間の愚かさと、
そういう状況でも竹で代用の輪灯を造った人々の信心の明るさの両方を示している。