生きるための浄土

坪庭で作った前回の○△□をメタモルフォーゼしてみた。
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無意識にらせんを描いてしまっていた。それが羽のように見える。
でも、これは最初から構想するよりもはるかに簡単である。
 
昨日のプチ法話は、内容については準備をせずに行った。
いつもは、あらすじぐらいは決めておくが、今回そうしなかったのは、どんなメタモルフォーシスが起こるのか興味があったからだ。
終わってみたら、絶対的な自己肯定感の話になっていた。
 
私の煩悩熾盛の姿を見たときに、私はどのようにしてそれを越えていくのだろうか。
自分の愚かな行いを悔やみ、愚かなことが浮かんでくるのを止めようがなく、正しいことができないことを責める。
少しうまくいくと有頂天になって自分をさも優れた者のように思いあがり、逆に何もできないと責めて落ち込む。
躁になったり鬱になったり、挙句の果てに、何のために生きているのやらわからなくなったり。
 
愚かと言えばこれほど愚かなものはいない。
そういう愚かな私を救わないで大慈大悲の仏と言えるのか。
そう思いながら念仏を称えた時、「汝よ」と呼びかける仏がいる。
「汝がそういう愚かなものであることは当の昔からわかっていた。
だからこそ、この誓願を立てたのだ。」
と。
この愚かな私のままで救ってくれる仏がいる。
私を浄土へ招き入れてくれる仏がいる。
 
そもそも、私は自身が愚かであることをさえわからない愚か者なのに、
どうして愚かであることがわかるのか。
それは仏の光があたっているからだ。
 
私の感じるままでいい。
私の思い上がりも落ち込むのもそのままでいい。
あるがままでいい。
恥ずかしいままでいい。
愚かなままで生きていくことができる。