「子どもたちよ、ありがとう」

報恩講をお勤めすることができた。
いくつかの気づきがあった。
 
法要の時のお経は内容がわからなくても、音で包まれること。
だから、音程が乱れると気持ちが悪くなること。
黒板を前にして法話を行うと、自然にできること。
これは、長年の教員としての習性であると同時に、黒板の文字が導く世界があることを示している。
 
客観的と主観的を対比させながら書いていたら、自然に科学と仏法の話になっていった。
みんなに、誰にでも ・・・ 客観的 ・・・ 普遍的 ・・・ 対象化 ・・・ 科学
親鸞(私)一人がため ・・・ 主観的 ・・・ 個別的 ・・・ 体験化 ・・・ 仏法
 
一人一人の体験は誰にも代れないもの。
それが一人一人の経験となり、そこから新しい世界が浮かび上がってくる。
 
その例として平野恵子さんの「こどもたちよ、ありがとう」を紹介した。
もう十数年前に読んだ本だが、一度も取り上げたことはなかった。
読んでいるといつも泣いてしまい、読むことができないと思っていたからだが、やっぱり声が詰まってしまった。
聞きながら泣いている方もいた。
 
平野恵子さんが「そのままの世界」に至るには、大きな回心が必要だった。
広瀬杲先生の「空過でない人生を送るためには、問いを持つこと。」という投げかけ。
恵子さんは、「この子は問うことができないと」と問う。
でも、広瀬先生は「身体で問うている。」と答える。
そして、子どもが教えてくれた「ものさし」の気づき。
「そのままでいい」という世界は、おおきな回心によってなされる。
そして、平野さんは生え出てくる雑草にもいのちの不思議さと、間違えない智慧を見出す。
 
たぶん、ここに、二種深信(安心=絶対的な自己肯定感)の意味(方便)があるのだろうと思う。
 
 
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