「天上天下唯我独尊」

私はこの言葉からヴィトゲンシュタインの言葉を思い浮かべる。
 
隣人のいない私
「世界には、無数の『私』たちとは別に〈私〉が存在する、と。
〈私〉には隣人がいない。すなわち、並び立つ同種のものが存在しないのである。
どうしてそんなものが存在しているのか。それはわからない。
しかし、その存在の構造は、いくらかは解明することができると思う」(『〈魂〉に対する態度』)
 
私という存在は、確かに一人である。
この〈私〉という様式の在りようはまさに〈私〉が一人であるということを示している。
たった一人だから隣人がいない。隣人がいないから孤独である。
でも、もしかしたら、そうやって同じ様なことを考えているやつがいるはずだ。
そう考えたとたん、〈私〉は私になると語ったのは永井均さんである。
〈私〉と私は違うのである。
 
これはこれでとても面白いが、子どもたちにとってどういう意味を持っているのだろうか。
子どもにとってはこれは自分の存在の意味を尋ねる言葉となる。
それは、自己中心的ではあるが、自分がこの世に存在している意味を無意識の中に追求していることを示している。
 
最近「自己尊重感」という言葉がよく出てくる。
自己尊重感を感じることができない人が増えてきていて、いじめや自殺を引き起こすという。
このグローバル化の競争社会にあって、労働が常に結果を要求され、内容も高度になりそれと共に、そこからはみ出された人たちが、自身に対して肯定的な評価ができなくなるという状態である。
そして、これは、企業の先端で働いている人たちだけでなく、子どもたちにも起こっている。
彼らは優れているところを持つことを要求されている。
しかし、そう簡単には持てないし、人と比較した時自分の惨めさを味わうか、
優越感を味わうだけの子たちなのである。
 
もちろん自己尊重感は大事であり、最初にあげた天上天下はそれを示した言葉であろう。
しかし、自己肯定感は自己尊大感も同時に引き起こす。
いや、自己尊大感があるからこそ、自己否定感を感じる。
 
浄土真宗は「罪悪深重の私」というとらえ方をする。
究極の自己否定である。
しかし、それは、だからこそ仏に救われるという究極の自己尊重感を示す。

浄土真宗は自分のことを凡夫だと自覚する所から始まる。
厳しい自己否定を信心の要とする。
すると、自己尊重感はどこへ行くのか。
凡夫であるという自覚は、現代社会の中では自尊感情を失いかねない。
凡夫悪人は現代では自尊感情を失うことにつながっていくのではないか。
そこで、自己肯定感を持ちながら凡夫であることの自覚を得るにはどうしたらいいのか?
 
私は自己肥大感と自己尊重感を区別する。
自己尊重感は自己肥大感になりやすい。
自己肥大になるのを止めるのが、凡夫であることの自覚なのだ。
そして、そういう凡夫であるという自覚が、仏の救いの根源であるということから
絶対的なる自己肯定感が生まれる。
そして、ありのままの私を受け入れてくれる。
 
私は一人である。
私はたった一人である。
私という存在は一人なのだ。
だからこそ尊い
 
難病「プロジェリア(早老症)」の患者であった、カナダのアシュリー・へギさんは十八歳で亡くなった。
日本のテレビ局がアシュリーさんにインタビューをしているときのこと、
「もう一度、生まれ変わったとしたら、今度は何になりたい?」
という質問をした。すると、アシュリーさんは、
「もう一回、私を選ぶ。」
と彼女は腕を組み、あたりまえのことのように頷いた。
 
私が、この話に感動するのは、彼女の境遇が不幸なのにと思っているからだ。
でも、勝手にそう決め付ける私は何と傲岸なのだろうか。
この話は、誰でももう一回私を選ぶことが本当であるということを示している。