帰命本願抄

 叔父の葬儀の折に、

「誓到弥陀安養界、還来穢国度人天、願我慈悲無際限、長時長劫報慈恩」
という偈に出会った。
これを調べていたら、向阿証賢上人の「帰命本願抄」にたどり着いた。
ここ三日ほど読んでいるが、大事なことが述べてあると感じる。
しかし、起きてからも効いている薬でぼーとした頭では理解に苦労している。
 
その内容は、話者が真如堂で夜を明かしているうちに、
二人の僧が現われ、問答をし始めた。
その問答が面白く聞き耳を立てた。
 
最初の問いは、念仏の一行で往生が決定するという理は何か?
次の問いは、悪人のための本願であることはわかるが、私は最も罪が重い者です。
だから、本願の中の十方衆生に入らないと思うのは僻事でしょうか?
三つ目の問いは、三心はたすけたまえの一念で足りるという心は何か?
まだあるが、とりあえず、その答えを簡単に述べる。
 
一つ目の問いに対して、
「又機のつたなきにつけては、己ずからたすけ給へと思う心も起りぬべし。
 心にたすけ給へとだにも思へば、はげまざるに申さるる念仏なり。」
と念仏を「たすけたまえ」と自然に称えることと答えている。
このたすけたまえの一念について、三つ目の問いに対して、
 
「人が湯の欲しい水の欲しいと言うのみぞ、いつはらぬ事にて侍らむ。
いささかにても、欲しき心の無きほどは、こはれぬ事にてあれば、その欲い心に、濃い薄いはありとも、こふ言葉はみな、真なるべし。
そのねがふ心に、深い浅いはありとも、申さん念仏はみな、真なるべし。」
欲しいという心が乞う心、願う心であり、その心から起こる念仏はまことである。
 
「すなはち、善導大師の、南無者即是帰命との給へるも、南無といふは、たすけ給へといふことばと釈する也。そのことばのしたに三心あるべければ、亦是発願迴向之義ともいふなるべし。阿弥陀仏者即是其行とは、たすけ給ふべき本願の名号なればなり。
しかれば南無阿弥陀仏と、となふるは、たすけ給へ阿弥陀仏といふことばなり。いふことばは思ふ心はあらはるるゆへに、南無阿弥陀仏ととなふることばに、たすけ給へ阿弥陀仏とおもふ心ありとしられたり。これによりて十こゑ仏をねんずれば、十願十行ありといへり、以此義故必得往生との給へば、たのもしかるべき事ぞかし。さればとしても、かくしても、つみふかき身のかこつかたには、たすけ給へとにてあるべき也。世にこえたる御慈悲なればとおもふのみこそ、又なくたのもしき事にては侍るめれ。」
 
ここで思い浮かぶのが、蓮如さんの「たすけたまえとたのむ」である。