カール・ベッカー教授に聞く

 
 本願寺橘総長とカール・ベッカー教授の対談が中外日報に書いてありました。その対談の二人の微妙なずれが何とも気になります。それは何だろうと考えてみました。
 
 日本では年間120万人の方が亡くなっています。その方たちの死に、日本人はどう向き合っているのか?
 そう問われたベッカー教授は、来日したての40年前は、ほとんどの人が自宅で家族に看取られて亡くなっていたこと。だから日本人は死を自然の摂理として受け入れ、誰もがお浄土を日常的に考えていたことを語られます。
 そして、今は日常の生活の中で死を見なくてもよい、考えなくてもよいようになり、そこから寺院離れ、宗教離れが加速されるようになったと言われます。
 
 このことについては、医療の進歩もあげられると思います。命を大事にしようと願い、治療技術の開発により、できるだけ延命させることにねうちが移っていったのです。それは、「死ぬことは当たり前」から「死なない方が(当たり前)良い」へという転換といえるでしょう。
 
 先のベッカー教授の課題提起に対して、橘総長はその原因は経済至上主義で欲望が膨れ上がり、自己中心的な生き方にあると述べます。
 そういう現状の問題について、ベッカー教授は、「自己中心が駄目だと言うならば、それに代わるより魅力的な価値観を寺院が発信できるか?」と問います。
 その価値観とは何か?
「つながっている方が居心地が良いということを寺院が示すこと。」
「人々が寺院に何を期待しているのかの調査の結果は、年配の人たちは寺院にお説教を期待しているのではありません。期待しているのは自然を味わえる場所です。伝統的なもの、池や木立、鐘楼などの建物・・・などです。」
と具体的な例をあげます。
 それは、「法義を伝える」という目的とずれています。このことは、私も経験しているのですが、例えば、葬儀の時の法話は、亡くなった人と関係ないことや、遺族のケアを含んでいない仏法(信心や念仏)の話は、いくら正いことを述べても心に届きません。
 悲しみや苦しみに寄り添うことが、浄土真宗の根本の教義であるはずです。葬儀などを、教えを伝えるご縁としてとらえると、そこにはこちらの勝手な思いが入り、それこそ自己中心的なものになってしまいます。教義を伝えることと、寄り添うことが同じでないと意味がありません。
 
 「昔は、家族で、弥陀如来の本願のはたらきによって救われている我が身を喜び、報恩感謝の念仏をあげた」と総長が述べます。
 それに対して、ベッカー教授は、「生きているだけでもありがたかった時代はそうだったのかもしれないけれど、今はそのような喜びの生活はほとんど姿を消した。そして、宗教には「過去を記念する宗教」と「未来のニーズに応えていく宗教」とがあり、過去を記念するだけではこれからの人々はその宗教を信仰することはないでしょう。」
と語ります。
 
 ベッカー教授は、生活の中に死を見つめること、それを意識して初めて生を喜ぶことができると言われます。親しい人の臨終と葬儀はその機会ですが、もう一つ教授があげたのが、浄土真宗の僧侶は本来ビハーラ僧でもあったはずだという言葉です。
 
 この言葉は、総長の、檀家制度が崩壊しつつあり、6割の住職が寺院の将来に不安を感じていること、そのために「宗法」を「改正」し、新たに寺院を中心としたコミュニティーを構築するための重点プロジェクトに取り組んでいる。災害支援や環境問題、高齢者のケアなどでという提案に対しての応答でした。
 教授は浄土真宗がこれだけ広まったのも、葬儀に携わったためではなく、常に死に逝く患者に心を寄せつつ、遺族をはじめ、生きている人たちの心のケアに努めてきたからではないかと投げかけます。
 そして、その方法として、教義などを人に押し付けるのではなく、亡くなる人の思いに寄り添って、介護される方の言葉を大事に記録に残すこと。「何が聞こえますか、何が見えますか」と問いかける。昔からそういう伝統があったのです。死に逝く人たちが、その死の間際に見えるものや聞こえるものを大事にすることによって、初めて、お浄土の実在と意味合いが明らかになってくると思います。
 この提起に対して、総長はその必要性を一定認めながら、教行信証に基づいて法を頂き、それを広めることが必要であり、介護や臨終はそのご縁として大事である。そして、現在の医療体制では上にあげられた臨終の聞き取りは難しくなっていると言われます。
 
 このことに関して、教授は「医師らはこれでもかというほど、手術や化学的な療法などを試みようとすます。それはなぜでしょうか。」と問います。
 総長はそれに対して、私たちの「いのち」は限りない大いなる「いのち」のはたらきの中で生かされているのであって、一人だけの「いのち」と考えてはいけないと答えられます。
 教授の応えは、そういった言葉は、医師には届かない。医師が個人自身の死後の存続を意識して初めて、患者はこの世の肉体だけでなく、お浄土まで生きられる精神であると考えられます。そして、医師も手術以上に患者の精神面を大事にし出します。
 また、自分が大いなる「いのち」につながっていると言われても何の慰めにも励ましにもなりません。患者自身も、死後のお浄土まで生きられる存在であることを悟って初めて、治らなくとも癒されます。
 末期がん患者に延命治療を勧めるよりは、「お浄土で誰に会いたいのか」と聞いた方が、よほど患者に希望を与えます。
 
 それに対して、総長は臨終だけでなく、平生の日常生活の「いのち」の大切さ(浄土の大いなるはたらきに生かされている私の自覚)を強調します。
 教授は、お浄土に生まれてこの世に戻る往相・還相、つまり、死んでもなお続く人間の精神面を視野に入れて初めて、行政にはできない重点プロジェクトや、教団独自の未来が開けてくるのではないでしょうか。
と問いの形で結ばれます。
 
 やや、婉曲に書きすぎたかもしれませんが、この対談は宗門の未来を示しているものかもしれません。