映画「ツナグ」

 
今日「ツナグ」を見た。
 
まさに、死者と生者をつなぐ映画だった。
 
私が興味があったのは、
生者の思いと死者の思いのどちらに比重がかかっているかであった。
一般的に死者がよみがえるのは、恨みや怨念を持った幽霊としてである。
だが、この映画は逆だった。
生者の思いが死者を呼び戻していた。
もちろん、死者の許可を得て。
 
何度も涙を流しながら見入っていたが、
私の悪い癖でいろいろと問いを持ってしまう。
でも、呼び出された、死者はどこにいたのか。
そして何を思っていたのか、消えてしまってどこに行くのか定かではない。
 
主人公(松坂桃李)がどうして死者が現れるのかという問いに、祖母(樹木希林)が語る。
「どうも死者が生前にこの世に残していったモノやコトが形をとって現れたような気がするのよね。」
その中には、残された生者の思いも含まれるのだろう。
 
しかし、呼び出された死者は確実に生きていた時と同じである。
自分の死後、残されたものがどう生きてきたのかを「ツナグ」から聞いて思考する。
死者が現れる前にはどうも意識があるとは思えない。
これは原作者の意図かもしれないが、死者の恨みや悲しみは一切語られない。
残されたものを励まし、残されたものを勇気づけようとする。
 
わたしは、もっと死者の思いを生者が引き継いでいくのではないかと思っていた。
が、逆だった。
生者が死者への思いを語ることによって、生者が死者に慰められる。
家族から、恋人から・・・
 
ただ、事故で死んだ親友・御園と女子高生・嵐の対話は重たかった。
本当の友だちだからと死者が語ることに対して、
心の中に秘密を持っている嵐は、最後までそのことを言わない。
御園も会話の中でも、知っている素振りや、恨み言を言わない。
そして、別れてから伝言という形で、御園が知っていたことを知らされ嵐は激しく後悔する。
死んだ親友と出会ったことで、やっと親友の気持ちがわかる。
 
この後悔が生者のこれからの生き方にどのように反映されるのだろうか。
 
残されたものが、どれだけ傷つき、悲しみを背負っているものなのだろうか。
主人公が語る「死者を呼び戻すのは生者の傲慢ではないか」という言葉は、
深く傷ついている残されたものの悲しみによって打ち消される。
 
残されたものは死者の思いを引きついていく義務があるのだと思う。