郡上組の報恩講

 
小川真理子師の法話
 
親鸞聖人のご一生を紹介しながら、それぞれの節で様々なエピソードを紹介されました。
 
29歳の六角堂での夢告
 
1、女犯偈
行者宿報設女犯
我成玉女身被犯 玉女=念仏
一生之間能荘厳
臨終引導生極楽
 
2、映画「ソハの地下水道」 
自らの危険を顧みず走り出した主人公の行為と叡山を降りた聖人の決断。
 
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1943年、ポーランド。下水修理と空き巣稼業で妻子を養っているソハは、収容所行きを逃れようと地下水道に繋がる穴を掘っているユダヤ人たちを発見した。ドイツ軍に売り渡せば報奨金を得られるが、狡猾なソハはユダヤ人たちを地下に匿ってやり、その見返りに金をせしめようと思いつく。ソハは迷路のような地下水道の構造を最も知り尽くした男なのだ。
 
ところが子供を含むユダヤ人グループは面倒見きれないほど人数が多く、隠れ場所の移動や食料の調達さえ容易ではない。おまけに執拗なユダヤ人狩りを行う将校が目を光らせ、ソハの妻子や若い相棒は処刑の恐怖におののいていく。
 
自らも極度の精神的な重圧に押しつぶされそうになり手を引くことを決心するが、時すでに遅かった。同じ生身の人間であるユダヤ人たちに寄り添い、その悲惨な窮状を目の当たりにしてきたソハは、彼らを"守る"という自分自身も信じがたい茨の道を選ぶのだった......。
 
信心の道=念仏の生活への決断
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ここに一人の人がいて、 百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。 その途中に、 突然二つの河が現れる。 一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。 その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、 どちらも深くて底がなく、 果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。 その幅はわずか四、 五寸ほどである。 この道の東の岸から西の岸までの長さも、 また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、 火の河は炎をあげて道を焼く。 水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、 少しも止むことがない。この人が果てしない広野にさしかかった時、 他にはまったく人影はなかった。 そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、 この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。 そこで、 この人は死をおそれて、 すぐに走って西に向かったのであるが、 突然現れたこの大河を見て次のように思った。この河は南北に果てしなく、 まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。 東西両岸の間は近いけれども、 どうして渡ることができよう。 わたしは今日死んでしまうに違いない。 東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。 南や北へ逃げ去ろうとすれば、 恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、 また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう と。 こう思って、 とても言葉にいい表すことができないほど、 恐れおののいた。 そこで、 次のように考えた。 わたしは今、 引き返しても死ぬ、 とどまっても死ぬ、 進んでも死ぬ。 どうしても死を免れないのなら、 むしろこの道をたどって前に進もう。 すでにこの道があるのだから、 必ず渡れるに違いないと。
こう考えた時、 にわかに東の岸に、 そなたは、 ためらうことなく、 ただこの道をたどって行け。 決して死ぬことはないであろう。 もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう と人の勧める声が聞えた。また、 西の岸に人がいて、 そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。 わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな と喚ぶ声がする。 この人は、 もはや、 こちらの岸から 行け と勧められ、 向こうの岸から 来るがよい と喚ばれるのを聞いた以上、 その通りに受けとめ、 少しも疑ったり恐れたり、 またしりごみしたりもしないで、 ためらうことなく、 道をたどってまっすぐ西へ進んだ。 そして少し行った時、東の岸から、 盗賊などが、 おい、 戻ってこい。 その道は危険だ。 とても向こうの岸までは行けない。 間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない と呼ぶ。しかしこの人は、 その呼び声を聞いてもふり返らず、 わき目もふらずにその道を信じて進み、 間もなく西の岸にたどり着いて、 永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、 喜びも楽しみも尽きることがなかった。 以上は譬えである。
 
法難で流罪になった後の決断
3、ご自身のことを非僧非俗と言われ、愚禿親鸞と名乗られたこと
 
「能令瓦礫変成金」というのは、 「能」 は 「よく」 ということであり、 「令」 は 「させる」 ということであり、 「瓦」 は 「かわら」 ということであり、 「礫」 は「つぶて」 ということである。 「変成金」 とは、 「変成」 は 「かえてしまう」 ということであり、 「金」 は 「こがね」 ということである。 つまり、瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえられておられるのである。 漁猟を行うものや商いを行う人など、 さまざまなものとは、いずれもみな石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである如来誓願を疑いなくひとすじに信じれば、 摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを開かせてくださる。 すなわち、 漁猟を行うものや商いを行う人などは、石や河原や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、 とたとえておられるのである。 摂取の光明とは、 阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるから、そのようにいうのである。
 
 
称名 釋文隆