報恩講法要の参加者と法要の意味

報恩講の法要に参加した人を見ながら、
「こうやって見ると、ほとんどが片割れを亡くしたものばっかりやな」
 
こう、つぶやかれた方がいました。
見ると確かに、ほとんどの方が(十数人ですが)大切な方を亡くされています。
 
「さみしい、さみしいと言っとったけど、みんなそうやで言えんなあ」
(男性の方です)
それに対して、ある方が言われました。
「わしは、夫が亡くなってから、2年間外に出ることができなかった。
2年たってようやく外に出てみようかという気が出てきた。
こうやって同じ境涯のものが集まって愚痴話をするだけでも慰められる」
(女性の方です)
 
寺院の一つのあり方を示す大切な対話をお聞きしました。
自分がなくなるよりも辛いのが、大切な方が亡くなられるという体験です。
その悲しみや苦しみが癒えるまで、2年かかったと言われたことが気になり、
質問をしてみました。
「その間、家の中で何をしていたのですか?」
「部屋を閉め切ると苦しくなるので、障子戸を全部あけていました」
・・・
「だから、お互いに慰めあわにゃ」
 
そういわれた言葉が心に残りました。
法要の一つの意味です。