斎藤道三からの手紙

いよいよ歴史モードに入った。
というのは、山県市から大桑城の歴史を調べるために、高鷲にある斎藤道三の手紙などを見に来たいということで、それに参加したから。

山県市からは5名の方(東洋大学の教授など)が来られ、手紙のことから土岐氏や斎藤氏のことをかなり詳しく教えていただいた。
手紙の中に道三が大桑へ出頭したという記述がある。これは大桑城の土岐頼純 の所へ挨拶に行ったということだとお聞きした。私は土岐頼芸だと思っていた。

そして、さらに読み違えていたことがある。
それは木下利忠からの書状の読解についてである。
その手紙を現代語に訳したもの。⇨【天文年間の手紙

御子息様の御元服(満十四・五歳~十八歳まで)の御礼に御太刀大小の二本を差し上げいたします。ここでお知らせいたします。喜ばしく目出度きことお手紙で述べられ従って、上様へ三十疋(銭十文=一疋、又は布地ニ反=一疋)を献上しました。
大変お慶びになられました。
上様からはお返しに五明一本(蝋燭五本を一束)を差し上げいたします。
お祝いの品でございます。
次に御﨟(女官)と乳母へ料紙(紙・障子紙等)を差し上げいたします。
詳しくは御返事にお述べられました。
それはそれで又私共の方へは料帋(料紙のこと)及び包丁刀をお心遣い頂き有難うございます。ご親切の事有難すぎることでございます。
私からはお祝いとして干鰭(ひぼう=干しイナダ=出世魚のブリのこと)二本差し上げ致します。
それについてご扶持(少額の銭)のことは細部にわたってお知らせいたします。
詳しい事情は 左京亮殿へ御返事申し上げるので詳しく書きません。おそれおおくも謹んで申し上げます。

思い違いとは御曹司を鷲見家のと思っていたこと、
上様は守護の土岐氏のことだと思っていたことなど。

教えていただいたのは以下のこと。
「鷲見藤兵衛は木下利忠を介して土岐氏の御曹司の元服祝いの為太刀を贈呈した。
その時、上様(たぶん御曹司の生母)に30疋、乳母へも料紙を差し上げた。
そして、仲介をとってくれた利忠には料紙と包丁刀をお礼として贈った。
上様からはお返しに灯明5本を御祝儀として(藤兵衛に)くださった。
私利忠からは祝言として干しイナダを二本差し上げる。
扶持(多分領地のことでの依頼のこと)のことについては左京亮殿から伝える。」

こういう贈呈をしたのは最後の扶持の依頼をするためで、それが何であったのか、どういう結果になったのかは手紙には書かないものと教えていただいた。
私は全く逆に解釈していた。なるほどと感じた次第。
なお、利忠は反頼芸側の人物だそう。

一番心に残ったことは、手紙の切封のこと。
こんなことは実際にその場で見て、実演をしていただいて、その証拠を見ないと、知ろうともしないだろう。

古文書の封式―切封墨引の古文書を作ってみましょう(デジタルアーカイブ利活用の実例)― – 東寺百合文書WEB (kyoto.lg.jp)