おふくろの味「おかし」と洞戸の鷲見氏

今日は重陽節句。永代経を延期することにした。報恩講はどうなることやら。
報恩講のお菓子を思い出したついでに昔の「おかし」を編集してアップした。

ほんこさまのお菓子

この中に「せいがい」という言葉が出てくる。
これは知らなかったので、親父の「ふるさとの言葉」で調べてみると庇のことと書いてあった。ネットで調べると庇をできるだけ突き出すような造りのことを言うらしい。
だから軒下と考えた。

 

ついでに鷲見氏が高鷲から京都や岐阜方面でなぜ活躍できたのだろうか不思議に思っていて調べたら、面白い記事を見つけた。

それは洞戸の歴史にかかわるもので、洞戸の高賀神社の扉に鷲見氏の紋である花剣菱が描かれているわけを考察したもの。
参考のために載せておく。

本殿扉に刻まれた紋章・・剣花菱

【本殿扉】
○剣花菱紋と郡上鷲見氏

本殿扉には、十六菊の紋と五七桐の紋、そして一番外側には「剣花菱紋」が掘り込まれています。
高賀山の麓をぐるりと取り巻くように配置されている星宮神社や新宮神社、本宮神社などは、十六菊の紋と五七桐の紋が社殿の屋根などに記されていますが、 剣花菱紋が神社に記されているのは高賀神社だけのようです。
剣花菱紋と高賀神社との関係を調べてみると、中世以降、美濃国郡上の御家人鷲見氏(鷲見氏の家紋は代々丸に剣花菱である。)との関わりが考えられます。
【紋】
郡上市那比新宮神社にある大般若経の第581巻の奥書(正慶二年)には、次の内容が綴られています。
「正慶二年之二月三日未時許、書写畢、楠木正成金剛山構城郭、応党宮御軍之最中成り」 この内容は、正慶二年(元弘元年・1331年)二月三日午後二時に大般若経の書写が終ったことを書き記した終りに、 楠木正成金剛山に城を構え、大塔宮(護良親王・・後醍醐天皇の子)は合戦の最中であると書き記しているのです。
この奥書の文字は、ただ単に風評を添書したものか、或いは、それ以上の意味を込めているのかは議論の余地はありますが、単なる偶然の文字ではないように思われます。
大塔宮は、元弘二年(1332年)十月に吉野で挙兵してからは、各地の寺社に味方するよう書状を出しています。 その中には、播磨の大山寺や、紀伊粉河寺などがありますが、大塔宮の書状は美濃の高賀山も含んでいたと考えられます。
そのころの高賀山一帯は、修験者の道場であり、さらには当時有力な新興宗団であったからです。
こうした集団を、大塔宮は陣営に引き入れようと苦心していたはずであり、美濃の高賀修験団を見落とすはずもありません。
この時の情報が、写経の奥書の文字となったと考えられるのです。
高賀の修験者たちは、当時新興の虚空蔵菩薩を信仰とする集団であって、既成の権力とは関係が薄かったため、大塔宮の働きかけも強かったと想像されます。
ここで元弘三年、大塔宮の指令を受けて参戦した御家人が、美濃国郡上北部を本拠とする鷲見藤三郎忠保です。
鷲見氏は早くから後醍醐天皇側に味方しており、高賀山の修験者たちとも関係があったのではないか、 その関係を示すものとして、高賀神社本殿の扉に、鷲見氏の家紋である剣花菱があるとしたら、鷲見氏と高賀山の修験者との密接な関係が浮かび上がってくるのだと考えます。
ただ、郡上の鷲見氏と高賀山の修験者との関わりを示すものは何も残されておらず、詳細は不明、鷲見氏は建武の中興後、美濃の守護土岐家の傘下に入っており、 土岐家は足利方であったため、北朝方の軍勢として延元元年(1366)京都へ出陣しています。
その後、鷲見氏の動きを見ると同じく郡上の東氏と組んで、南朝側の尾崎宮と関、旧武儀郡、長良あたりで交戦し、尾崎宮(高倉天皇の玄孫)の軍勢を敗退させているのです。
大塔宮(南朝側)に頼られていたはずの高賀の修験者達も、親交のあった鷲見氏と敵対する南朝の尾崎宮に援軍を送ることも出来ず、 歴史が流れてしまったのではないだろうかと考えられるのです。
高賀山を取り巻くようにある高賀六社を見てみると、鷲見氏と近い郡上の本宮、新宮、星宮神社には、剣花菱紋はどこにも見えず、郡上と反対側の高賀神社だけに見受けられるのです。
その点については、郡上の中心から南部を納めていたのが東氏、後に遠藤氏といった有力な武将が勢力を持っていたため、 郡上の北辺の地の鷲見氏としては、東氏等の影響力が及んでいない高賀山の西側洞戸にある高賀神社、 そして高賀修験者らの関係を構築して、都の情報を確保する拠点としていたのではとも考えられます。

○洞戸の鷲見姓は郡上高鷲がルーツ!
現在、高賀地区に鷲見姓はないが、洞戸地区には何件かの同姓があり、家紋は丸に剣花菱です。
その鷲見家は藤原北家の祖である藤原房前をルーツとしている。
そして鷲見家は、昔高賀にあったと伝えられていて、現在は美濃市乙狩にある大洞山金谷寺(臨在宗妙心寺派)の檀家であるということから洞戸に残る鷲見家は、 その昔郡上の高鷲から渡ってきた鷲見氏の系統であると思われます。

○高賀に移り住んだ鷲見氏の目的は・・・
それでは、鷲見氏がいつ頃高賀の郷に入り込んできたかと考えると、南北朝の時代、鷲見忠保、あるいはその子鷲見禅峰(干保)の頃ではと推察されます。
ちなみに、鷲見氏の最も活躍した時期が南北朝時代で、それは忠保、忠保の子禅峰のころ、その内容は、観応三年(1352)、禅峰は尾張大山寺合戦に功を立て、 同年熱田宮口の合戦にも奮闘している。
また、文和元年(1352)伊勢国に従軍し、阿波坂・同中村口の合戦で戦功を立てている。
さらに、美濃国守護土岐頼康の死後、世継問題で一族の間に争いが起こった時に、幕府は、鷲見禅峰に土岐家の養子土岐康行を討たせています。
鷲見氏の活躍は、美濃国内ばかりか、尾張、伊勢の国にも及んでおり、郡上の最北端に根拠地を持つ一守護が、それだけ広範囲に活躍できた背景には、 郡上以外の地各所にそれなりの拠点が必要であったと考えられます。
南北朝時代、その拠点の一つが、高賀の宮とそこを本拠として当時一代勢力を誇っていた高賀修験者団であったことは間違えないと言えます。
そして、鷲見氏はさらに勢力を美濃国南部に広げていきます。
鷲見美作守保重は、鷲見氏の菩提寺として、岐阜市山県北野にあった天台宗の寺を、雲黄山大智寺(臨在宗妙心寺派)として明応9年(1,500年)に再建し、 鷲見氏の新たな拠点としています。
その後、保重は美濃国守護代斎藤氏との関係が悪化し、永正七年(1510)斎藤利良は北野城に攻め寄せ、保重は敗れて自刃。
このとき、殉死者が十三人に及んだと言われています。

【鷲見美作守保重が再建した雲黄山大智寺(岐阜市山県北野)】

鷲見氏は最後、斎藤氏との争いで敗北していき、郡上へ落ち延びていくかたちとなって、 「武勇に長けた」と評されてきた鷲見氏の、歴史舞台からの降板を見ることとなります。
郡上高鷲の鷲見氏一族が、中央勢力と関わって美濃国で勢力を張っていく手段として、高賀の宮と、その修験者たちが巻き込まれていったのではと考えられ、 その唯一の証として、高賀神社本殿扉に刻まれた家紋、「剣花菱紋」が残っているのだと言えるのです。

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