自己組織化システムの産出物

母がヨーグルトを食べたいという。
スプーンで4さじ程飲み込んだ。
次にジュースという。
これも5さじぐらい飲み込んだ。

点滴を打ちつ飲みたいゆーぐると飲み込むのどのありがたきかな

オートポイエーシス」って何だったけと振り返ってみる。
熱にうなされて夢うつつでいろいろなことが浮かんできて、今までのことが幻のような気がしてきたからだ。
自分なりだけど学んできたことが幻のような気がしてくる。
さらに、新しい本の編集に取り組んでいると、これはいったい何だろうか感じてくる。
歴史を調べていると、栄枯盛衰・すべて夢幻のようなことに思えてくるのだ。
だから、新しい本を作る意味を考えざるを得ない。

熱にうなされる前に「新基礎情報学」と郡上の村史や町史を読んでいた。
新しいオートポイエーシスの理論が展開されているけど、読んでいるとそもそも「自己組織化」って何だっけとわからなくなってくる。

自己組織化システムのプロセスは次から次へと産出物を生み出す。
その産出物はまたこのシステムに組み込まれ、新しいプロセスを形成して新たな産出物を生み出す。
ポイントはこのようなプロセスが次のプロセスの開始の条件となるように連鎖しているということだ。
産出物がさらなる構成素になっていくということ。
もし組み込まれなかったら異物として排出される。
産出物が構成素となり、自己組織化システムのネットワークが構造化されると、初めて外部から観察可能となる。

鷲見郷のことを書くということは、
鷲見郷の記録を調べて観察したり、記述したり、新たな概念を生み出すためではない。
新しい経験(のプロセス)を聞くためにある

これはすでに先人たちが行ってきたことである。
鷲見郷の構造を観察して表現するということは、観察者の視点に立つということ。
でも、私たち自身がその鷲見郷の内部にいるのだから、当然観察者ではない。
その閉じられたシステム内部からシステムの創発と同時に環境も創発しているのだから、観察者の視点では見ることができない。

つまり、
そのシステムの循環はそれに巻き込まれることによって、気がつくと自ずとシステムの自己の意味が分かるようにつくられている。
つまり、閉じられたシステムを外部から観察するのではなく、
このシステムの作動の理解は「巻き込まれる」という経験によって得られるのである。

こういうことが新たな本を編集するということだと思う。