古川潤哉師の法話

岐阜教区の寺族女性会の主催で西別院で法話会があった。

といってもこの状況の中で開催するのだからリモート。
ユーチューブのライブ法話会で佐賀の古川潤哉師のお取次ぎを聞いた。

テーマは分断や対立を超えていく「生と性と死」。
ジェンダーの問題やマイノリティ(少数者)の話をしていただいた。

ライブで佐賀から法話されるのを見ながら、これがオンラインでなかったら、岐阜へ行くのも遠いし怖いので良かったと思った。
別院のユーチューブのチャンネル登録をするとすぐに見ることができるし、これなら自分でもライブができそうだと思った。
ネットを「弱者のためのツール」にしていくことも大事なことだと改めて感じた。

その後、講師の古川潤哉師とFBのメッセンジャーで交流した。

 「今日の岐阜教区寺族女性会のご法話、ご体解様でした。 古川師のお声を一度聞きたいと願っていました。 この状況の中で拝聴することができたことは、とても有難いことでした。
分断や対立を仏様の立場から見るという視点の大切さを改めて認識しました。 35願の読み方もなるほどと感じました。遠方からありがとうございました。」

ライブだと聴衆は見えないからとてもやりにくいと話された。
確かに反応を見ながら話すことはできない。
そこで双方向のライブを提案。

「講演では誰かに焦点を絞って話をしますよね。 そうするとオンラインでも同様のことができないかと思います。 たった一人でも良いので反応を見ながら語る。 無反応の聴衆相手に語ることはほぼ不可能だと思います。 それにしても大変なご法話をありがとうございました。 『何が良くて何が悪いではなく、有とあらゆるあり方がある』ですね!」

 古川 潤哉 | Facebook

法話を少しだけまとめてみる。

仏さまのスタンスは「あらゆるものを摂取する(すくう)」こと。
私は自分の見える範囲に知ることを限定している。
でないと、辛すぎて生きていけない。
仏さまはあらゆる私をすくう。
つまり私の分断や対立を悲しまれる。
35願(女人往生の願)は、「女性として辛い思いをしている人は」が主語。
自分の苦しみを認識できる人は、他者の苦しみを見つけることができる人。
見捨てないということは「声を上げられない人」であっても誰一人取りこぼさないということ。
念仏すればすべて解決ではない。
すべきことがあればする。
受け入れていくことがあれば受け入れる。
何が善くて何が悪いではない。
ありとあらゆるあり方がある。
だから調和していける世界をめざす。

 

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