「教育への構図」竹内常一著 を再読している。
というのもここの所「全能感」について調べていたからだ。
この本の中に、60年代の地域破壊と家庭解体の結果、
文化としてのからだが未確立で、遊び、労働する自由を奪われ、仲間のなかの自治的世界を失った子どもは、『文化としてのからだ』をとおして、自然と社会をつかむことができない。このために子どもたちは、幼児的な自己中心主義・自分主義から抜け出して自我を生み出すことができないでいる。
と書いてある。この分析が面白いのだが、その後の60年代能力主義教育から出てきた「操作主義的教育」をもろに受けてきた自分自身のことを振り返るために、それと対比した「学び」についての論考がとても参考になる。
操作主義の学習は
「科学の方法を教科内容から切り離し、それを情報操作の方法に歪曲する。だから概念や法則をデータ処理の機能と役立ちの面から評価して、その操作力を機能主義的に教育しようとするものとなった」
このため
「もの・実在に具体的にせまることをとおして概念・法則を知的に抽出してくるという認識の過程がまったく脱落することとなった」
ここからは図式で示す。
(操作主義的教育は次のものを分断し、前者の方に重点をおいている)
知性の教育 + アートの教育
認識の指導 + 技能・表現の指導
「知ること」+「味わうこと」
だから、
発達・学習主体の認識・要求・実践を無視し、
「学習主体」と「もの・実在」「個人」と「集団」との主体的交渉を軽視する。
「知性の教育」と「アートの教育」
「認識の指導」と「表現・技能の指導」
「行為・行動の自主的選択」と「行為・行動の訓練」
これらの間を分断し、
「知育を注入主義的に」
「技能の教育を技能主義・根性主義・精神主義に」
「訓練を管理主義に」
歪曲する。
これらは新自由主義教育へと引き継がれてゆく。
今私自身が研究している「圏論」の学びがどういうものなのかを、この竹内先生の本と大西忠治先生の「読み方指導の改革案」から確かめている。
この図式は私なりの表現であり、技術であり、行為行動なのだ。
9月1日に竹内先生が逝去されたことを知った。
でも、私の中で竹内先生は確実に生きている。
ある時竹内先生から自宅に電話がかかってきた。「かがり火」の分析のことで手紙で返事を書く時間がないからということだった。でも、その話が全く理解できなかったことを昨日のように思い出す。
もちろん何度も聞き直して、ようやくわかってきたことは、「鋭すぎる分析は実践者のやる気を奪う場合がある」ということだったと思う・・・