上一形を尽し、下十声一声に至るまで

一形(いちぎょう)という言葉がある。
 
「もともと形が無かったものが一つの形をとってこの私となった」
という意味である。
簡単に言えば「私の一生」のことである。
が、一生と言わずに一形と表したのは、仏法の諸法無我から来ている。
 
善導大師の言葉にもある。
 
仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。
今身にかの国に生ぜんと願はんものは、
行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、
昼夜に廃することなかるべし。
畢命を期として、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、前念に命終して
後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽を受く。
乃至成仏までに生死を経ず。あに快しみにあらずや、知るべし。
「畢命を期となす」
とは、いのちの終わるときまでということだが、ここから一期一会が出てくる。
一期、一形、一生・・・
よく使う一生は生の方だけに向きすぎていると思う。
一期や一形は己自身をよく振り返らす。
 
最初「一形」という言葉になじめなかったが、
この世界に生まれたこと、そして形をなして生きることを一形と表したのは見事である。
それは、いま現に形を成そうとしていること、
物質的にも精神的にも。
そういう私のありようとは何であろうか。
どういう意味があるのだろうか。
という問いを持たざるを得ない。
 
もう一つ、後生という言葉がある。
後の生という意味と、生の後という意味がある。
この生の後ろにあるもの
この一形の後ろにあるもの
それは何かを問わざるを得ない。
 
死が虚無であるとしたら、生も虚無である。
死は決して虚無ではない。
 
信を一念に取り、行を一形に尽すべし    法然上人
一念は一瞬の時、一形は一生。