山上の垂訓

24日クリスマスイブにプチ法話会。
ケーキを食べながら、キリスト教浄土教について話をする。
 
特にマタイ伝の山上の垂訓について。
 
「狭き門より入れ。滅びの門は広い。」というキリストの言葉は二河白道を連想させる。
「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。」は、
 財産も才能も智慧も信心さえも待たない、自分自身の心の貧しさを知っている人=凡夫の信心と同じである。
「敵を愛し、迫害するもののために祈れ。」は、
 「自分を愛する者を愛したからとて、何の報いがあろうか。そんなことは取税人でもする。」という言葉と
 関連して、法然上人を思い出す。
 
プロジェリアで亡くなったアシュリーの言葉は、「十地の菩薩」の態度と同じである。
 地につくということの大事なことを古今東西同じように述べている。
 「神はきっと私にプロジェリアになったことの意味を教えたかったのよ」と。
 
参加された方の感話で、「念仏すると、仏様がいろいろ教えてくださる(=仏と対話をしている)。」
という言葉も、心に残った。
「アシュリーさんは、幸せな方ですね。」と言われた方もいた。
 
マタイ伝の「山上の垂訓」は漢訳されていたという話も聞いたことがある。
本当かどうかわからないが、「世尊布施論」という訳が本願寺にあるようなことも聞いた。
この世尊はイエスのことであるが、確かに布施についての深い態度である。
いずれにしても、長安の都で、ネストリウス派景教)のことを善導大師が知っていたことは間違いないと思う。
 
この山上の垂訓を、アメリカの為政者たちはどう考えているのだろうか。
私たちは、ただ人々のために平和を祈るしかない。