「もし、他国が攻めてきたら」
「もし自分の子どもが殺されたら」
「もし、自分の娘がレイプされたら」
このような極端な状況を思い浮かべ、その時の感情で自分の判断を決めるという傾向がある。
単純で白黒をつけやすいので、深く考える必要が無い。
でも、それは正しい道ではない。
私たちはそういう思考方法におちいりやすい。
白黒をはっきりさせたり、単純であるということを好む傾向がある。
しかし、世界は単純ではない。
様々な縁起が重なり、多様な様相を示している。
そして、モノゴトには様々な段階・状態がある。
それを極端な状況だけをもって、判断するというのは人間の陥り易い癖であろう。
それを煩悩と言う。
戦争に協力した戦時中の僧侶の愚かさを話すと、必ず返ってくる言葉がある。
それは、あの戦争中は仕方がなかったという言葉である。
これは悲しさである。
戦争中でも現在でも、大きなもの・強いものに流される、個の悲しさ。
「殺させない、殺さない」
そう願った釈尊の末裔として、今緊急の課題と永遠の課題をこの現実の生活の中に見出しながら
生きていく。
「非暴力を願いながら、他者を傷つけてしまう悲しみを抱えて、人生を歩む。
悲しみの連鎖を安らぎの連鎖へと願いながら。」
「自分は死の苦しみの中で、念仏なんか称えることができないかもしれない」
それでも大丈夫だという仏に導かれながら。