「学習Ⅱ」の意味について

フランスの新聞社襲撃事件について、最初は言論の自由を侵すものという批判をしていた。
ところが、この記事を読んで、そういう見方は、強者の側の見方だと感じるようになった。
 
 
この二面性は、どのような文脈の中でとりあげられるのかで、その意味が異なってくることを示している。
 
昨日、ベイトソンの学習論を書いて、ある程度理解したと思っていたが、
今日になってみると、その意味のつかみ方に勘違いがあることに気がついた。
 
それは、「学習Ⅱ」は、自動的に学習を発展させるようなイメージを持っていたことによる。
学習Ⅰが試行錯誤だとすると、学習Ⅱは道具的、目的論的な思考パターンを使った学習である。
だから、学習することを学習し、より効率よく学習できるようにする。
 
ところが、学習Ⅱにおいて習得されるのは、連続する体験を句切ってまとめるまとめ方である。
そして、このまとめ方はいつも正しいとは限らず、
事態に対処するにあたって、間違った認識と行動のパターンを確立してしまうことがある。
だから、一旦出来上がってしまうと、よほどのことが起こらない限り、
そのまま固定化されたパターンを繰り返すことになる。
 
いわゆる「性格」なども、この学習Ⅱによって形成される。
この固定化は、宗教的な回心やサイコセラピーなどが大変な困難を伴うということからもわかる。
 
「これが良いかどうかは知らないが、私は好きだ」
というように、学習Ⅱは、コンテクストのとらえ方、行動の仕方の「型」を学ぶ。
だから、「私」とは、学習Ⅱの生み出した型の寄せ集めでともいえる。
 
よって、
信心とは自分を固めることではなく、自分が破られること」ということが、
どんなに困難を伴うことであることかもわかる。
でも、このように自身の学習Ⅱを相対化し、さらに学習Ⅲをめざしていくことができるという見通しを持つことができる。