気づきについて…木&川

私はなぜ気づけるのだろうか?
まったく知らないことだったら気づくはずはない。
知っていることだったら発見の喜びはないはず。
それは、知っているとも違うし、知らないこととも言えない。
 
このことは不思議である。
そこに何かあるのではないかという気づき。
何か変だなという気づき。
それに気づいたのは、真如よりのはたらき・縁起であり、方便であると思う。
 
これをソクラテスは「イデアを思い出す」と言ったのだろう。
かって、そこ(イデアの世界)にいたから思い出すように気づくことができると。
 
昔から長いことイデアにとらわれていて、ようやく抜け出せたと思っていたが、
イデアの世界=真如であり、さらに、真如の一つの現象としての私があると考えると、
イデアを思い出すと同じようなことなんだと思ってしまう。
ただ、個別のイデアが存在するというイメージは納得できない。
イメージ 1
 
さて、この図は川ともとれるし、木ともとれる。
ところが、木だったらこの下側の方にも根っこがある。
では、川には根っこに対応するものが無いのかと考える。
 
西村肇先生の「冒険する頭」という本に、環境汚染を調べるために、
川の水が海とどのように混ざり合うのか調べる調査とモデルが書いてある。
川の水は、海とそのまま混ざり合い、一律に希釈されるのではないということが書いてある。
そこにはまさに木の根と同じような複雑な構造が存在する。
 
つまり、木と川はよく似ている。
そして、川は大地と大海をつなぎ、いのちを循環させる。
そうすると、木は大気と大地をつなぎ、いのちを循環させる川のようなものである。
逆に、川は大地と大海をつなぎ、いのちを循環させる木のようなものである。