雪下ろしをしながら考えた。
「雪下ろしは一銭の得にもならない」と長年そう思ってきた。
雪下ろしをするときに、これが食べるものだったり、金鉱のようなものだったら…と思う。
身体だけ疲れて、降ろした雪や運んだ雪は、やがて解けてしまい何も残らない。
雪は何も生み出さないのか。
いや、雪はスキー場に積もり、客をよんで経済効果をもたらす。
また、除雪をする建設会社へ金をもたらす。
また、雪を使って、食品を保存したり、春待ち人参のように糖度が増したり…
そういう積極的な雪の利用もされている。
でも、雪下ろしは違うと考える。
では、雪下ろしが何も残さないなら、他の仕事は何を残しているのだろう。
例えば、百姓で野菜をつくるとすると、労働は野菜に変化する。
でも、その野菜は、お腹の中に入ってやがては消えていく。
じゃあ、雪下ろしと野菜づくりはどこが違うんだろうか。
どうやら違いはないようだ。
何か残るかどうかではなく、人が生きてゆくためにはどちらも必要なのだ。
ここで、雪下ろしができないおばあさんがいたとしよう。
雪下ろしはしなくてはならない。
そこで誰かに雪下ろしをしてもらう代わりに、自分のつくった野菜を渡す。
雪を下ろすことと野菜が交換され、お互いに生きていくことができる。
そして、これは自然にお金を使った交換に代わる。
では、そのお金の交換とは何か。
お金は回りまわってまた野菜づくりのおばあさんの手元に来る。
とすると、お金の交換によっていったい何が変わったのだろうか。
まず、それぞれの生きていくために必要なモノやコトが交換されている。
雪下ろしをしてもらったこと、食べるための野菜、薬や、農機具など・・・
それはモノやコトが移動しただけなのだろうか。
この変化は、モノの移動だが、雪下ろしは単なる雪の移動ではない。
雪下ろしということの意味を伝えたことにもなっている。
「これで大丈夫だからね」と。
それは、メッセージであり、意味を伝えたことであり、それはコミュニケーションといっても良い。
よく考えてみれば、モノの交換においても、そのモノの意味が大事だ。
その人にとって、そのモノが意味があるからこそ、交換が必要となっている。
つまり、交換することは新たな意味を誕生させることになっている。
結局は、意味=メッセージの交換、つまりコミュニケーションの成立ということになる。
雪下ろしを自分でやっていてはわからないことがたくさんあった。
雪下ろしも教育という仕事も同じだったんだ。
これは安冨さんの貨幣論の応用である。