「全責任論」と縁起と業

雪のおかげで体力が回復してきたように感じる。
それにしても一昨日の夜は怖かった。
車で進むと、このまま行けるのだろうかと不安になる。
私は先に降りたが、そのまま奥へ行く若い人のことが不安になった。
 
清澤満之のことを少し書く。
近代教学と簡単にくくれないと感じている。
それは、自身に染みついた仏教と西洋近代化との闘いであった。
 
私自身にも古い因習を乗り越えて合理的な精神にしたがって生活するということを
知らぬ間にやっていた。
でも、これは闘いではなく、汚染されていることだった。
「魂の回復運動としての念仏」は、「合理的な精神」との闘いである。
と高く掲げたが、そもそも「合理的精神」とくくっていいのか、それは何か、
という問いが必要となる。
 
それは、おいおいはっきりさせることにして、当面は、業ということについて考えていきたい。
それは、私の人生とは何か、いや、この娑婆での生とは何か
ということに尽きる。
 
清沢は、縁起の思想を無限のはたらきととらえる。
無限の縁起が私たちの形と名を成しているのだとしたら、
私のありようについては全責任があるということになる。
それは、私には当然のように思えてしまう。
 
でも、それは同時に全宇宙と私がつながっているということを示している。
つながっているからこそ、全責任があるのだ。
全責任があるからこそつながっているのだ。
スピノザは人間は神の属性(一部)だといった。
世界が苦しんでいるから私も苦しいとなる。
 
これはとても傲慢な考えだ。
でも、そこに無限の大悲を想定したとたんに逆転する。
 
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