末端は葉である(ツリーとリゾーム)

ツリー構造は、同時にリゾーム構造を連想させる。
それは、ネットワークにつながっていく。
ネットワークは縁起の構造と同じだから調べてみたくなる。
 
ツリー構造は、何かと何かをつないでいる構造であり、
川は大地と海を、木は大地と大気を、血管は内部と外部をつないでいる。
道路は川とよく似ているが、決定的な違いは、回路ができていることである。
つまり、別の道があるということで、道路をリゾームのモデルとする。
イメージ 1
これは自然にはありえない。(あるとしたら、縁起だけだが、それは形ではない。)
そんな無駄なことは自然はしない。
血管に回路は一つしかない(全体のみ)。バイパスはあくまで人工的なものである。
 
さて、道路は何と何をつないでいるのか?
都市と地方である。
では、ネットは?
中央と周辺であると連想できるが、方便論的個人主義としては「私」と「他の人」となる。
 
ちなみに、ツリーとリゾームを対比した場合、ツリーは一方的に流れるイメージを持つが、
現実には双方向に流れているので、ここではつながり自体を考察する。
この図で沢山の分岐が出ているところがハブである。
そして、末端が私である。
 
問題は、こういう構造が創発を生み出すかどうか?である。
ツリー構造には養分や栄養の流れがあった。
ではネットワークは何を運んでいるのだろうか?
それは、意味であるといっても良いと思う。(情報は私にとっての意味となってこそ価値が出てくる)
 
ここで、ツリーから連想すると、末端は葉である。
つまり、我々情報の末端は葉だということになる。
葉は、栄養をもらい、空気中のCO2と光で新しい物質をつくりだす。
情報のネットワークの末端の葉である我々は、吸い取った意味を、どう光合成して、どんな新しい意味を創り出しているのだろうか。
 
こうやって木や周りの環境にとっての葉の役目を思うとき、新しい意味の創発のイメージが浮かんでくる。