悲の樹の譬え

12日かかって、難問5がやっと問題が解けた。
 
実は2回ほど解けたと勘違いをしたときがあった。
つまり、何度も迷ったということだ。
解けてみると、この道しか無かったと感じると同時に、なぜ迷ったのだろうかと気になる。
 
それは、原因と結果を混同してしまっていたこと。
つまり、道筋をはっきりさせていなかった。
結果から考えるから混乱するのは当然である。
そして、本質を明らかにしていなかった。
 
こういうことは度々ある。
道筋が間違っていたら、真実には達することができないのだ。
 
親鸞さんが様々な経・論を読んで考えを進めていったとき、そのすじ道は実に細い道だったと思う。
でも、それを明らかにしたとき、その道は大道であることに気がつく。
 
毎日の図書館通いで、気に入った所をメモしている。
その中で、「悲の樹の譬え」が気に入ってしまった。
 
この譬喩では、悲の樹が語られ、悲そのものが樹の根になぞらえられている。
それに水をかけるのは慈である。
幹は忍耐、枝は思唯、そして葉は浄の世界に生まれようとする願い。
樹は新しい葉をつける。それは、勝れた生を得たいという誓願の相続が断絶しないことを示している。
こうして、その幹、枝などが繁くすくすく育ち、悲の樹は花開き良い果実を実らせるのである。
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この譬喩で注目されるのは、智慧が上向きであり、
慈悲が下向きである所である。
それは往相と還相の廻向や自利利他の行を連想させる。
 
大悲の根に灌水するものがなぜ慈であるのか?
 
深い問いである。