「ブッダは輪廻を説かなかったのか」

十二縁起から輪廻転生は論理的に導かれる。
それはその輪廻を脱する道を説くためであった。
縁起とは因果関係である。
 
「無明によって行がある。行によって意識がある。意識によって名称と形態がある。
 名称と形態によって六つのよりどころががある。六つのよりどころによって接触がある。
 接触によって感受がある。感受によって渇愛がある。
 渇愛によって執着がある。執着によって生存がある。
 生存によって老いること・死ぬこと・愁・悲・苦・憂・悩がある。
 このように、これらすべての苦のあつまりが集まり起こる。」
 
これが輪廻に向かう道筋。
 
「無明が残りなく離れ滅することによって、行の滅がある。
 行の滅から意識の滅がある。・・・・
 このようにすべての苦の集まりが滅する。」
 
これが解脱への道筋。
 
そして、そこには主体は立てられていない。
主体(自己)を立てないからこそ、輪廻を脱する道が立てられる。
(自己があるとすれば、その主体は変化せず、自己が無いとすれば主体そのものが滅びる。)
これを中道と言う。
 
この論法は、行為の主体を主語としないことを示している。
行為の主体を主語とはしないが、善い行いは善い境涯を保証する。
 
では、何が輪廻転生しているのだろうか。
そう問うことが、仏陀の論法から外れている。
過去から未来への「識の伝達」という輪廻のメカニズムがあるだけなのである。
 
石飛道子さんの『ブッダ論理学』を少し読めるようになってきた。