大乗の国と帝国主義の国…仏教が生きている国とは

慧海師の旅行記の中に、「チベット宗教の将来」という章がある。
慧海師はチベットと日本だけが大乗仏教の国と考えていた。
それは次の4つの理由による。
 
 チベット国民の真実の信仰はどういうのかといいますと、
(1)人間より以上の実在物があって、その実在物は確かに我々を保護して下さる。で、その実在物との交通は我々の信仰によって為し得るということを確かに信じて居るです。

 その存在物を信ずる上においては、種々の間違った祭事や儀式等があるけれども、それは小さな宝玉の周囲にある岩のようなもので、その本心においては確かに仏陀あるいは菩薩があって、我々の困難を救い我々に幸福を与えて下さるという信仰を確実に持って居る。
 なおその上に神というものを認めて居りますけれども、どんな神でもあるいは腹を立てて人民に害を与え仇を加える事がある。例えば 耶蘇教の神さんでも、その昔人民が罪悪に陥って済度し難いからというて大いに憤り、大洪水を起して 総ての罪悪人を殺し、ただその中の善い人間即ちノアという者を救うたというような 依怙贔屓をする者である。チベットの神も皆然り。いわゆる人間の 喜怒哀楽の情緒をその儘に実行される者である。

 
(2)ところが仏はどんな事があってもお怒りなさらぬ。仏ほど深い慈悲と円満なる智慧を持って居らるるありがたい方は世界にはないと堅く信仰して居るです。それはもう実に蒙昧なる人民でも神と仏の違い、即ち神は怖いもの仏はありがたいものということをちゃんと知って居る。
 かくのごとくチベット人民はごく詰らない迷信を沢山持って居るに拘わらず、こういう立派な信仰を持って居る。
 
(3)今一つは原因結果の道理で何事も自業自得、自分の為 したる悪事は自分で苦しい思いをして償わなくちゃあならん、また自分の為したる善事の結果即ち快楽幸福もまた自分が受け得らるるのである。そして原因結果の規則は未来永劫に続くものである。いわゆる種が実となり実が種となってどこまでも継続して行くものである。
 
(4)それと同じ事で我々の心もまた死んだからというて決して滅するものでない。再びこの世に生れ変って来るものであるということを確かに信じて居るのは、いわゆる瓦礫中の璧( たま )である。
 ところが生れ変って来るという原因結果の道理を信ずるところからして、どこそこのラマその者は今度どこへ生れて来たとかあすこに生れ変って来たとかいうて騒ぎ立てるのは、いわゆる真実の信仰が過ぎて迷信となったのであります。
 ただ原因結果、自業自得の理法に基づいて自分の心体そのもの(心力継続)は未来永劫滅しないものであるという尊い信仰は、仏教信者として第一に有すべき信仰でありまして、チベット人はもはやこういう事の話を幼い時からお伽話として母の口より 吹込まれて居る。
 
この4つのうち、現代では(2)と(3)ぐらいしかこの列島には残っていない。
しかも(3)は「自己責任」と、全く形を変えて。
そして、チベットでは仏教は中共人民解放軍によって徹底的に虐殺・破壊されてしまう。
慧海師がチベット動乱のことを知ったら、どんなに悲しむことだろうか。
 
「世界万国の人々は肉欲的娯楽に飽きて、精神的の最大自由を求めようということに熱中している。
この時に当たって真実の仏教をもってその欠点を満たすに非ずんば、今日大乗仏教国の我々の義務が立たない。面目が立たない。」
 
慧海師は帝国主義に対抗できるものとして大乗仏教を考えていた。
 
「かくの如き虚偽生活の流行は、精神界の指導者であるべき宗教家が負わなければならない。」
 
慧海師の厳しさはここにある。
ダライラマ14世が輪廻転生を否定したというようなことがどこかに書いてあった。
現代では輪廻転生も政治的に利用されるおそれがあるからだろう。