「郡上一揆と隠し田」

郡上図書館・大人の学校で、「郡上一揆と隠し田」の話を聞いた。
郡上一揆の話は何度も聞いているし、本も読んでいるのだが、いくつかの新しい発見があった。
 
まず、井藤さんの「コンテキスト」がある。
井藤さんの問いは、
一揆に立ち上がった人たち(若い人たちが多い)は、どのような立場・心境で一命をかける決意ができたのか」
である。
その問いは、どのような大義があったとしても自分には到底できないという自己嫌悪からきている。
そして、その答えが、隠し田の存在である。
 
隠し田の摘発は百姓にとってまさに死活問題であった。
それを、統計資料から推測する。
隠し田があるおかげで、五公五民の厳しい税に対して何とか暮らしていけた。
それが、摘発されれば、生きていけない。
特に、一揆の指導者たちが、山間部の土地のない貧しい地区の百姓であることから推察される。
 
井藤さんは、この問いを30年かけて追求してきた。
それは、自分の体験からきている。
自分の住んでいる所の言い伝えや、林業の仕事で山の中に入った時に、隠し田の跡を何度も見つけたという経験からだ。
 
問題は、この仮説をデータから証明できるかどうかである。
そもそも隠し田が表面に出てきたらまずい。
表だった文書には証拠として残さないはずだ。
 
ただ、判決文には「切り添え田畑」のことが書いてある。
私は、これは隠し田のことだと思っていたが、それはもともとある田んぼを拡張したのをいう。
これについては、一揆の後に申告制の調査があり、だいたい1.2%ぐらいの増加。
それくらいだったら、命をかけるほどのことではない。(井藤さんは20%だったらと言っていた)
 
改易になった金森に代わり入ってきた青山は、それをわかっていて、申告制にしたのではないか。
私は、領主と幕閣の罷免を勝ち取ったが、定免法を検見法に変えられたということで、百姓側は敗北したと思っていたが、井藤さんは、隠し田を隠し通すという所期の目的は勝ち取ったと言う。
隠し田が摘発されて郷帳に書かれないように一揆を起こしたのだから。
 
ただ、これは郷帳にはデータとして現われていない。
年代別・村別の郷帳で石高を調べ、実に詳しいデータを出されたが、そこには明確な隠し田の証拠は見えない。
極端に増えたところもあるが、新田開発か隠し田かは区別できない。
ある意味当然と言えば当然である。
隠し田が表面に出てきたら、隠し田ではなくなる。
でも、ないからと言って、この「仮説」を捨てることはできない。
隠し田の言い伝えは残っているのだ。