「わかる」と「回り道」と「たとえ」

この病気は暑くなるとよくない。
ちょっと歩くとしんどい。
というわけで、一日中寝ていた。
少し動いて寝て、TVを見ながら寝て、本を読んで寝て・・・
 
寝ながら考えた。
とかく人の世は住みにくい。
ああいえばこういう。
こう思えば違うという。
もっとも、みんな同じになったらもっと気持ちが悪いが。
 
頭の中で考えられないから、紙に書いて考える。
頭で考えられないが、紙とペンが考えてくれる。
 
具体と抽象は、対比の中ではなく「のぼりおり」の中に本質がある。
はたらきが本質なのだ。
アナロジーもメタファーも、説明も、研究も同じことの違う働きなのだ。
何回も書いてきた「回り道」と「たとえ」も、同じことの反対向きのはたらき。
そうすると、「わかる」ということは、絶え間のない活動の中にあることがわかる。
 
「わかる」とは活動の中にあるから、身体で学ぶものなのだ。
さっき、ちょうど、次の「日本ジャーナリスト教育センター」の記事を知った。
 
放射線被害を告発した「ドキュメンタリーな学習」 映画で脚光を浴びても衰退の危機はなぜ?【映像あり】
 
ドキュメンタリーを撮るという活動の中で変わっていく生徒たち。
しかし、それができなくなっている教育現場を憂う。