「私の仏法」は生きているか

今雪がちらついている。
 
この冬は、八幡では雪が積もることは少なかった。
昨年は台風もよけていった。
これも異常気象といってもよい。
そんな話を交わしていた。
 
昨日は、なごみの法話の後、組の実践運動研修会があった。
遅れて参加し、ご講師の法話は途中からではあったがよくわかった。
 
テーマは「寄りやすいお寺」
講師の石槫師は、その条件を5つにまとめられた。
(1)宗教・宗派を超えること
(2)身体性を取り入れること
(3)寺の施設を開放する
(4)喫茶店に学ぶ
(5)お参りに来る人たちに仕事があること
 
どれも、なるほどやってみようと思う取り組みのアイディアが満載であった。
その基本は、情報を伝えること、地域の相互の交流、そして真宗の寺の成り立ち、
つまり、人々が集まって念仏、聞法の道場としてできたということが根底にある。
 
僧侶と門徒が一緒に、学び、協力し、人のため、世のためにできることを、
地域の中で行っていくことはまだまだたくさんあるということを学ぶことができた。
 
私は浄土真宗は、「在家の仏教」であると思っている。
在家の方でも、法を語る素晴らしい方もいる。
ところが、なごみの法話のときに、
「僧侶の方が話されるのと我々では聞き方が違う。」と言われた。
僧侶も兼職し、世俗の塵と煩悩にまみれて生きている。
だから期待されているということか。
 
たまたま、同様の話が研修会でも出たが、
この世を生き抜いていくために「仏法が生きてはたらいている」ということが無ければ
寺の価値は無い。
そう考えると、仏法を生かすということは、自分自身の上にまず成り立つことだと
気を引き締められる。