「救い」と「さとり」の違い

  
さとりの世界=浄土である。観無量寿経でイダイケの救いと言わずにさとりと書いたのにはわけがある。
それは、次のような疑問が出てくるからである。
「イダイケは浄土で救われたの、それとも浄土でさとったの?」
この問いを解くためには、さとりの世界(=浄土)をはっきりと知る必要がある。
 
その第一歩
人間は身体・感受作用・心・法の四法において、浄・楽・常・我の妄見を起こしている。
この妄見を破すために智慧により、身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我と観ずることがさとりをえるための実践修行である。
 
凡夫は、無常・苦・無我・不浄のこの世を、常・楽・我・不浄と思い誤る。
声聞・縁覚は、さとりの世界が常・楽・我・浄であることを知らないで、無常・苦・無我・不浄であると思い誤る。
 
常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である
 
一切有為は、皆これ無常なり。虚空は無為なり。この故に常と為す。仏性は無為なり。この故に常と為す。虚空は即ちこれ仏性なり。仏性は即ちこれ如来なり。如来は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。常は即ちこれ法なり。法は即ちこれ僧(法を伝えるもの)なり。僧は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。
 
涅槃は無楽なり。四楽をもっての故に、大涅槃と名づく。何等かを四と為す。一は、諸楽を断ずるが故に。楽を断ぜざるは、則ち名づけて苦と為す。もし苦有らば、大楽と名づけず。楽を断ずるをもっての故に、則ち苦有ること無けむ。無苦無楽いまし大楽と名づく。涅槃の性は無苦無楽なり。この故に涅槃を名づけて大楽と為す。
 
涅槃界(=浄土)といふは、無明のまどひをひるがへして無上覚をさとるなり。界はさかひといふ。さとりをひらくさかひなりとしるべし。涅槃とまうすにその名無量なり。くはしくまうすにあたはず。おろおろその名をあらはすべし。涅槃をば滅度といふ。無為といふ。安楽といふ。実相といふ。法身といふ。法性といふ。真如といふ。一如といふ。仏性といふ。仏性すなはち如来なり。