「自分の國」の自覚へ

 まだ、佛国土の話が終わっていなかったことに気がつきました。
そういえば、そのことを教育のことを例にしながら浄土まで行くはずでした。
 
 子どもたちにとって、各々に國があり、その中心に自分がいるということはどのように自覚されるのでしょうか。
 この自覚に至るために佛国土があるのですが、経験上、子どもたちの自分に対する認識は二つあります。一つは自分が世界の中心であり、自己が肥大化する場合です。これは、周りについてはほとんど認識しません。
 もう一つは、逆に自分に対する存在感が希薄な(自己尊重感がない)場合です。世界の中心に私がいるとは到底思えない場合です。私はダメなんだといつも考えてしまいます。私なんかいなくても…と思ってしまいます。
 
 他者から認められたいという気持ちは、人間の根本の本能のように思えます。「自分を認めてほしい」という気持ちが、子どもだけでなく全ての人にあります。この本能があらゆる形をとって、子どもたちを苦しめます。
 認めてもらえないから・・・、認めてもらうために・・・、このことをよく考えると、認めてもらうことは自分自身を決めることなのです。私は~である。私は~ができる。私はダメな人間なんだ。どうせ私は・・・。
 こういった感覚はどこから来るのでしょうか。私は、子どもたちにとって世界は自分の外にあり、自分はその世界の中で孤独に一人で生きていると感じているからのように思えます。
 私たちが他者や社会から大きな影響を受け、意味ある他者と出会い、自分一人だけでなくその周りに連なる関係を見出した時に子どもは大きく成長します。それは、哲学的に言えば他者の認識であり、教育的に言えば集団の認識であり、仏教的に言えば佛国土の認識であると思います。
 自分の國が自分を中心とする関係性の世界であると感じたら、その世界は、全く違ったものに見えるはずです。自己否定から大きな肯定へと変化します。それは生まれ変わったような感覚です。大きなものに抱かれているような感じがしたと言っている人もいます。
 
 佛国土の自覚に至るまでには、かなりの道のりを要します。それは、子どもの國土が汚れている場合に顕著です。
 子どもを取り巻く関係性がゆがんでいたり、ねじれていたり、人間として認めないものであったり、追い込むものであったりした場合、子どもたちの住むところが、地獄(認められない)・餓鬼(やめられない)・畜生(無知、言いなり)・修羅(人に勝とう)という國になってしまいます。