佛国土を浄土にする

 
 大乗仏教の発展の中で、個人としての人から、社会的な存在としての人間へと、とらえる見方が進化してきたことが伺えます。そして、教化の対象も個人を変えることから、関係性を変えることへと変わってきます。それは、佛国土を清浄(浄土)にするという表現の中に現われています。
 では、どうしたらその佛国土を浄土にすることができるのでしょうか、維摩経(義疏)では次のように説明します。
 
「「直き心」がすなわち菩薩の浄土である。菩薩が仏となった時に、諂わない衆生がやってきてその国に生まれるであろう。」以下、「深く道を求める心」、「さとりを求める心」、「情け深さ」、「いましめ」、「たえしのぶこと」、「つとめはげむこと」、「智慧」、「慈しみ・悲れみ・喜び・平らかな心」、「情け深さ・親愛のことば・ためになる行い・協力」、「方便」、「三十七のさとりの手段」、「己が善根を他人に回向する心」、「仏法を聞くのにさわりのある八つの難所を除くのを説く」、「自らいましめを守って他人の欠点をそしらないこと」、「十善」がすなわち菩薩の浄土である・・・」
 
と佛国を浄土にする=衆生が浄土に生まれる因を示しています。そして、真っ先に「直き心」を取り上げています。さらに菩提心智慧、四無量心、度衆生心、方便…と続きます。
 
 ただ、ここではあくまで菩薩の行を示していて、衆生の方はその行を因としてその国に生まれるとなっています。ですから、あくまで主人公は菩薩であり、菩薩の佛国土です。
 
 菩薩にとっては、佛国土=その人を取りまく関係性を清浄にすることが教化になります。そのことは、社会の中で生きている自分の自覚であり、社会へのまなざしがあります。ちなみに菩薩とはそういう社会を自覚し自分の國を浄土にしていこうと願っている人のことを言います。
 そうすると、なぜ「佛国土」という概念が考えられてきたのかもわかってきます。佛国土とは僧迦(さんが)をモデルとするものであり、同朋をモデルとするものです。
 さらに、その佛国土を浄土にする意味も分かってきます。浄土の荘厳とは、直き心や菩提心などです。そして、浄土への道は、いくつかの行があります。浄土の荘厳の法によって、そこに生まれた人とともに菩薩が自身の佛国土を浄土にしていくことが、さとりへの道なのです。