佛国土その2

 
 そして、聖徳太子は、その佛国土に浄土と穢土があるのはおかしい。浄土だけを佛国土というのではないか?と問い、それに答えています。
 
如来にはもともと自分の国土というものはない。ただ教化されることになる衆生の類を取り上げて、彼らのことを佛国土と呼んでいる。だから、佛国土は浄と穢とを通じてある。如来はいかなる者どもに対しても同じように教化を行う。ゆえに浄と穢とに通じてすべての衆生のことを佛国土としているのである。」
 
「仏と菩薩にはもと国がない。あるのは衆生の世界だけである。もし、仏や菩薩が自分の国が欲しければ、衆生の世界のどこかを取らねばならぬ。たとえば家を建てようとするのに、空地ならば意のままに建てることができるが、空中には建てることができぬようなものである。菩薩はどこを取って自分の国としたかといえば、衆生の在るところ至らざる所なし。」島田幸昭師
 
 つまり、「菩薩が取ったままの世界は穢土である。それを佛土というのは、衆生を救い、この世を清めるために、菩薩が責任を持ってくださったという意味で、佛国土というのである。」島田幸昭師
 
 そうすると、法蔵菩薩は佛国土として摂取したこの私たちの國(穢土)を浄める行として、四十八願を建てられたことになります。
 
「(無量寿経に)「清浄に無量の妙土を荘厳すべし」とあったのは、一人の衆生に一つの國がありますから、数限りない衆生の一つ一つの國をりっぱに成就して行くことです。阿弥陀仏の国は衆生によって成り立っていますから、その中に住んでいる衆生の生活がりっぱになり、一人ひとりの國がりっぱにならねば、阿弥陀の浄土はりっぱになりません。」
 
 一人で修業し一人で覚るのでしたら、浄土は必要ありません。菩薩は一人で覚るのではなく、救うべき人と一緒に覚るわけです。それが大乗の定義ですから、菩薩にとってはすくうべきは個々の人ではなく、その國々ということになるわけです。そして、教化の対象はその人の國土となります。
 これは、縁起の思想からも導き出されます。縁起は一人の衆生が一人であるのではなく、様々な関係性の中で生まれてくるものだということを示しているからです。この関係性はまさに國といってもいいものでしょう。