佛国土

 
衆生の「自分の國」とは何か?
島田幸昭師はこのことを次のように説明しています。
 
「私がいう世界は、そこにある客観的な事実です。たとえば私を中心とすれば、そこに父があり母があり、兄があり妹がある。父を中心とすれば、世界がガラッと変わる。私が母と呼ぶ人は妻となり、私は八男となり、兄も妹も皆息子や娘となる。あり方の関係が変わるだけではない。言葉使いから、生活態度から、すべてが変わる。十人おれば十の世界があり、千人おれば千の世界がある。
 私を中心とする私の世界は、私が王で、他の人は皆私の國の住民である。父を中心とする世界は、父が王で、他はすべて父の國の住民である。
 私の國が清らかであれば、王である私の存在は安らかであり、その行動も無碍である。もし私の國が濁っておれば、私の存在は常におびやかされていて、私の行動は絶えず妨げられ、その道はいばらである。
 その人の世界が清らかであるか、濁っているかは、その人とその人を取りまく人々との関係によるのであるが、それは、その人が、周囲の人の胸にどう映っているかというところに現われている。」
 
 この一人一人の「世界」を「國」と名付けます。(國とは、矛をもって土地を囲うこと、すなわち領土を意味します。日本国の国とは違うという意味を込めて。)私たち一人一人に國土があり、その國土を菩薩や仏が取った時に、佛国土になるということです。取るとは摂取(仏が衆生をおさめとって救うこと)の意味です。
 そして、私たち一人ひとりに國があることを自覚すると、その王が自分であることに気がつきます。その時、其の國を何とかしなければ、その責任は自分にあるという自覚に立つと國が国(佛国土)になります。