ここから阿弥陀仏の浄土へと論を進める前に、大乗の菩薩道について考えてみたいと思います。
大乗仏教の菩薩道=教育の道
大乗仏教は他への教化を、その一つの行としています。これは、ちょうど教育に例えることができます。私は長年教育の仕事にかかわってきました。子どもたちと関わりながら、いつも大乗仏教と教育の営みが良く似ていることに気がついていました。いくつか気がついたことをあげてみます。
(1)教師は教えながら学ぶ。これは、修行と教化が一体であることにあたる。
(2)教師は子どもたちに少しでも成長してもらいたいと願っている。自分の満足だけではない利他行である
(3)その時に、子どもを自分よりも劣ったもの、教え込むものとして対してはならない。子どもは一つの人格を持った教師と対等な人間である。また、教えるという立場に立つと驕った考えになってしまう。(このことについて、故祖父江文宏師は子どものことを敬意をこめて「小さい人」と呼ばれていることを記しておきます。私は「子供」ではなく「子ども」と書きます。)
(4)だから、子どもたちにまず自分を受け入れてもらうことから始めなければならない。
(5)子どもの現実(トラブル)は社会の現実であり、子ども個人だけを対象にしていては教育の営みはできない。
(6)それは、子どもも自分もともに成長する相互的な関係であり、子どもから学ぶという心が必要である。
(7)だから自利の行であり、利他の行である。
(8)子どもたちの話を十分に聞き、さらに私はこう思うと述べるところから出発し、子どもたちの関係性を変えるところへと至る。
(9)問題やトラブルがあった時、その子の性格を変えようとか、その子を良くしようと考えるのは縁起の思想に反している。教師が変えることができるのは、教師と子どもたちの関係であり、子どもたちどうしの関係を、子どもたちのちからをかりながら変えていくことである。
(10)指導するとは、命令することではない。子どもをその気にさせることである。それは、子どもの主体性を前提しにないと成就することはできない。
(11)そのためには、教師に真心がないとできない。また、子どもたちはそれをすぐに見抜く。
ざっと思いついたことを書いたので、重複することもあるかもしれません。子どもをその気にさせるということは、仏教でいうと、菩提心を起こさせることです。また、精神的な驚きの心を起こさせることを常に考えていなくてはなりません。
迷いからさとりへと向かう道中の人を菩薩といいます。時々、菩薩のような尊敬できる子どもに出会います。たぶん、子どもも尊敬できる大人と出会って、あのようになりたいと思います。私たちはそれを夢を持てと言いますが、それは、子ども自身の中に自分を信じる心が生まれてくるからです。それを菩提心といいます。
教師の仕事は、この菩提心を育てることに尽きると思います。では、菩提心はどうしたら育つのでしょうか。それは、学問と行と廻向です。修業と修行はどう違うかというと、学業を修することが修業で、修行はそれを身につけることです。やってみなければ自分のものにはならないのです。
廻向というのは、何かを回して他に向けることを言います。つまり、私とあなたという自他の関係に目覚め、相手を育てることによって、相手から自分が育てられるというまさに自利利他の菩薩行なのです。
そして、この中で、自己を知り、その自己が立っている浄土が自覚されるのです。