東井義雄先生はほんものの教師になれるのか(2)

この実践にはいくつか質問してみたいことがある。
 
(1)M君に友だちがいないという原因と思われる「社会性に欠けたところ」はどこからきたものなのか?
(2)M君と誰かを結びつける努力はなされなかったのだろうか?
(3)東井さんからの手紙に対してM君はどういう反応をしたのだろうか?
(4)なぜM君は甘えるような心安さを見せるようになったのだろうか?
 
もちろん、これらの質問は、それが書いてないということから読み取らなければならない質問であろう。
つまり、この文脈では必要ではなかった。
そして、東井さんはそれをわかっていたが、あえて書かなかったと。
 
「あの時、どういう風の吹きまわしか、わたしに背を向けていくM君をわかってやることができた。・・・」
と書かれているが、実は東井さんにとってはわかっている。
それは、「他力」である。
自分の力ではないと言うことを強調したかったのである。
 
では、東井さんの「他力」とは何だろうか。
それは、「ほんもの」ではない教師が、あくまで「ほんもの」の教師になろうとすることである。
 
これは、実に不思議なことのような気がする。
大西さんが、そこから「しごとやりかたとして、もっとこまごまと定式化する道」を残して欲しいと書いているが、東井さんにとっては、他力=仏の力として説明することではなかったのだ。
だって、自ずとそうなるのだから。
 
続く