東井義雄先生はほんものの教師になれるのか(4)

東井さんが、「教える教育」=「自力の教育」と考えて否定し、
そのまま抱きとる教育」=「他力の教育」と考えていたとしたら、「物指し」はもう一つあったことになる。
「自力から他力へ」そして、「凡夫の自覚から他力へ」という浄土真宗の「物指し」である。
 
Aちゃんの事例で言うと、
Aちゃんことを知らずして外からAちゃんに言わせようとしたが、
それはAちゃん自身の人格を無視し、Aちゃんをもののように扱って加工しようとすることであった。
もちろん、Aちゃんを言わせたいという目的はAちゃんのためであるが、
本当にAちゃんのためであったのか。教師のプライドではなかったのか。
自分の思うとおりにならないAちゃんに怒ってしまったのがそれを示している。
教師は、子どものためと思いながら、どこかで教師のプライドに変化してしまったものを子どもにぶつけることがあるのである。
 
教育は教師の願いがあって始まる。
その願いは、往々にして子どもの心をこじ開けようとする。
それでは子どもはますます心を閉ざす。
だから私たちは、子どもの内にあるものに眼を向け、
そこを見つめ、子どもの願いを聞きとり、眼差しをおくり、
そして、その子の内面に、ある意識を育てる。
もちろんそれは、活動=生活をベースとして行なわれる。
真宗で言うと浄土(=場)である。
生活が関係性をより豊かにし、豊かになった関係性が生活を変えていく。
 
東井さんはそれを、「自力と他力」の物指しにあてはめたのだ。
「自力でどうにもならなくなったときに、他力に目覚める」という物指しに。
しかし、他力を知っている人は、それを自覚しながら自力に努めるのではないだろうか。
もともと技術というものは「願い」がしっかりとしていなければ誤った使い方をされるものである。
 
「生活指導とは、生活がわたしたちを指導することである」
東井さんはそれを言いたかったのだ。
わたしたちの中にある驕りの心を、自覚させようとした。
しかし、それは「教える教育」すべての否定ではなく、
「教える教育」の陥りやすい陥穽を指摘したのだ。
 
続く