仏教の近代化

仏教の近代化の方向として、以前、清澤満之と七里恒順をあげた。
ここに、河口慧海と南条文雄と井上円了小泉八雲を加えなければならない。
一応分類してみる。
 
(1)西洋哲学と仏教との対決 ⇒ 清沢(哲学としての仏教)、井上(生涯教育)
(2)西洋帝国主義との対決=文明の道=菩薩道 ⇒ 河口、井上(護法護国論)
(3)サンスクリット文献学による仏教原典の追求 ⇒ 河口、南条文雄
(4)市民の生活の中の仏教=近代国家の道徳としての仏教 ⇒ 七里、田中智学、井上(迷信の打破)
(5)失われた信仰を再評価する道 ⇒ 河口、八雲
 
これをどう評価していくかと考えることは後知恵であるが、これからのことを考えると真剣に考える必要がある。
 
(1)これは、一般庶民には縁遠いが、三業惑乱も学者の論争が、門徒の混乱を生んだという事例から見ても、それをどれだけ分かり易く説明するかということが求められている。
それを追求した方向は、清沢にしても井上にしても別の道だったが、納得できるものである。
これは現代においてまだ追求されるべき点が残っている。
 
(2)と(3)は密接に結びつく。
そして、マックス・ミューラーの「アーリア神話」がナチスの思想まで発展したように、昭和になって戦時教学にまでいってしまった。
と簡単には評価できないところがある。
そもそも、慧海師は帝国主義に対抗できるものとして慈悲の大乗仏教をあげている。
そして、井上なども「文明化による真実の仏教の開発」をめざしていた。
そのことは裏腹であるが、「護法護国論」や「尊王奉仏」の仏教政治運動へと結びついてゆく。
が、慧海師の大乗仏教は、帝国主義に対抗するものであった。
それは、帝国主義的視点にまったく立たず、慧海師がネパールの大王に対してチベットに入った目的を説明するのに、密命を帯びたのではなく、自分の仏教に対する熱意と意思で入ったこと、友人に迷惑がかかるのに忍びないと慈悲をもって説得し、受け入れられている点がそれである。(ナショナリズム大乗仏教の視点から)
慧海師が、帝国主義に対するに大乗仏教の慈悲で論破しているのは痛快である。 
 
(3)は慧海師においてはあくまで釈尊の仏教の追求であった、がそれは何を生み出したのか。
文献学によって、確かに日本仏教が原典には根拠を持たないことは論証された。
しかし、漢訳され大陸で追求された仏教は、列島へ到って、それまでに無かった仏教を生み出されたものだ。
先人の苦労はそこにあったし、それは釈尊の精神を発展させたものだと思う。
ここにこそ釈尊の精神が顕現したのであり、仏陀がある。
 
さらに、慧海師も文明の世に250戒は実行不可能と語っている。
しかし、五戒は最後の戒律である。
不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒
これを守ることは困難であるが、守れないからといって捨てさるべきものでは決してない。
 
(4)は唯一現代にも残ったものだ。
でも、それは本来必ず(5)を伴っているものだった。
(5)こそ近代化の中で失われたものだ。
慧海師は、昨日のように四つの信仰が仏教の信仰だと語っている。
また、小泉八雲の「輪廻転生(=心力継続)」に対する積極的な評価は、『おばあさんの話』に描かれている。
 
「私はおばあさんがこれから先、少なくとも5万年くらいの間は生まれ変わってこないような気がする。」
 
とまで言わしめたこのおばあさんは、
歴史や信仰によって幾多の重ねられてきた教育と本人の厳しい人生の体験から生まれた精神である。
このおばあさんは、無私の心を持ち、決して人の悪口を言わず、世の悪行について迷いであり無知であり愚かなのだから怒るよりも憐れんでやらなくてはならないと思い、そして、深い智慧を持ち、働き者で、深い愛情を持ち、肉食をせず殺生戒を守り、智慧を授ける慈悲の偉大な教師の法に従って生きてきた。
 
確かに今後五万年に一人生まれるかどうかだろう。
が、こういうおばあさんがかって生まれたことは間違いないのである。