仏教における「欠如モデル」について

『科学の専門家が、
ある「科学的な事象」に対して反対や対立が起きるのは、
人々の知識が欠如しているからであって、正しい知識をわかってもらえば、不安や反対は自ずからなくなる』
 
と考えることが「欠如モデル」。
この欠如とは、人々に知識が欠如しているということからきていると思われる。
この「科学的な事象」を、原発放射能問題などに置き換えると、
このモデルがよく使われていることがわかる。
 
この「欠如モデル」が出てきたのは、
そういう専門的な知識だけでは、人々は科学技術を受容することには至らないという反省からだ。
それは、他の科学や感情や政治や経済など他のモノとの関連が密接に重なっており、
その科学的な知識だけを増加させても納得できないという極めて当たり前のことなのだが、
それをどう乗り越えていけるのかという問題提起なのだ。
 
一方的にご理解くださいと言われても、一方的に説明されても納得できないのは当然。
それは、一方的だからだ。
つまり、説得のモードでいくら語っても、一方通行では説明していること以外何も生み出さない。
大事なことは、双方の対話なのだ。
しかし、この対話も、説明する方が、ただ聞くだけというスタンスでは、やはり何も生み出さない。
 
このことは仏教についても言える。
仏教についての疑義を、仏法の知識が欠けているから問題が起こるのだとして
知識を一方的に伝えるだけでは、「欠如モデル」に陥っている。
ここで、批判されるのは、知識ではなく、知識を一方的に伝えようとし、知識を増やせば仏法が受容される
と思い込むことなのだ。
 
聴聞とは、一方的に聞くだけの行為では決してない。